2020年5月26日火曜日

コロナ禍の「新しい生活様式」〜養蜂を夢想する

「新しい生活様式」などというと、そこになにがしかのウキウキ感があるはずだが、コロナ禍にあっては新鮮さも期待感も全く湧き起こらない。
この生活スタイルでは、これまでできていたことが全否定されるというほどではないにしても、別の手段手法だったり、他の活動への転換を迫られる。我が合唱もそうしたことの一つだ。
今一部でリモート合唱が試みられているが、それが合唱のあり方として定着するようには思えない。結局オンライン飲み会で憂さを晴らすことになりかねない。
ここまで書いてきたことを読み返してみると、否定表現の羅列に気がつく。そう、コロナそれ自体が人間に対してネガティブに働きかけるものだからだ。

何がきっかけだったか思い出せないのだが、コロナ禍で家に籠ることが多くなってから蜂蜜に興味を覚えるようになった。蜂蜜は特段目新しいものではない。健康美容にも良いとして日常的に口にする人も多いだろう。
思い返せば母親が病弱だったせいだろうか、子供の頃一時期我が家では1、8リットル瓶や一斗缶(18リットル)の蜂蜜を買っていた。
花の季節になると通学路に蜂箱が置いてあるのは見慣れた光景であった。蜂に刺されたことも一度ならずあったから、蜂蜜の甘美さには時にトゲを感じることもある。

この天然の甘味料はいったいいつまで遡るのだろうか。8000年前と推定されるスペインの洞窟絵画に蜂蜜を取る様子が描かれているそうだ。(ルーシー・M・ロング「ハチミツの歴史」 クマも愛する蜜の味を人類原初の時代から味わっていただろうことは容易に想像できる。
採集では自然の恵みは安定的に手に入らない。当然養蜂の歴史が始まるのだが、これがいつまで遡るのか。養蜂の歴史は巣箱の歴史ということになるのだろうが、先の図書によると古代エジプトの時代から作られてきたという。
他方日本はどうだろうか。ネットなどでは日本の養蜂の歴史は7世紀からとある。これは少し不思議に感じる。日本人は長い間この蜜の味を手に入れるのに採集に頼ってばかりいたということだろうか。今日の養蜂箱を見ると7世紀以前の日本人が作れなかった、思いつかなかったとは思えない。少し乱暴な言い方をすれば、養蜂は蜂に気持ち良く巣箱で営巣するように仕向けるものだろう。巣箱に構造の複雑さは必要ないように見える。ならばなぜ我が祖先は7世紀に至るまで蜂箱を作らなかったのか。
世界の蜂蜜に関わる民俗が教えることによれば、蜂蜜が単なる甘味料として食する物だけでなく、宗教儀式と結びついたり、洞窟絵画に見られるように紋様として描かれたりされてきた。日本の民俗誌に蜂や蜂蜜がどのように記されてきたか寡聞にして知らない。

日本列島には二種類のミツバチが生息しているわけだが、セイヨウミツバチは近代に養蜂とともに日本に入ってきたと考えていいだろう。一方在来種のニホンミツバチはいつから日本に住み着いたのだろうか。日本の石器時代以前から住み着いていたのなら、なぜ養蜂が7世紀以降と遅かったのか。あるいは古文書に記述がないだけで、もっと早くから養蜂が行われていたのかどうか。遺跡の発掘物の中に養蜂につながる出土品がないのだろうか。

しかしセイヨウミツバチ同様、渡来人によってもたらされた養蜂共々外から持ち込まれたとしたらどうだろう。菅原道夫氏によると日本書紀に「百済太子余豊がミツバチを奈良の三輪山に放して飼育した」という記事があるという。つまり日本のミツバチの歴史は渡来人による養蜂とともに始まり、それが野生化したのがニホンミツバチ、ということになる。また菅原氏によるとニホンミツバチと韓国に生息する東洋ミツバチは遺伝子的に大変近いそうだ。(菅原著「比較ミツバチ学」)もしそうだとすれば日本における養蜂の始まりの遅さの説明になる。

いまニホンミツバチ養蜂を趣味にする週末養蜂とか都市養蜂がそれなりのブームだそうだ。これなら実益も得られるのでコロナ禍で一層盛んになるかもしれない。
筆者はといえば、養蜂を夢見ながら冬籠りするクマというところか。



2020年5月14日木曜日

「新しい生活様式」

政府はコロナ禍における「新しい生活様式」を国民に求めている。
老後の無理のない文化活動として合唱を楽しんできた身には何とも嬉しくない報告がアメリカのCDC(防疫センター)から出ている。


point
・僅か2時間半の合唱練習で参加者のほとんどが新型コロナウイルスの   
 攻撃に晒された
・5人に1人は超拡散能力を持つ可能性がある
・咳があるかないかを感染の指標にするのは危険。

詳細は下記のURLで。
https://nazology.net/wp-content/uploads/2020/05/fe29bcde20a52024d4f891530524c0a3.png





ほぼ合唱中心に回ってきた退職後の生活が今年の三月以来一変してしまった。まだ3ヶ月たらずなのに、長く感じられるのはこれまで経験したことがない事態であるだけでなく、先の見通しがないせいでもあろう。所属する合唱団では今年五月に予定していた演奏会を一年延期したが、それとて確実に開催できるかわからない。
政府が求める「新しい生活様式」は勿論感染防止のためのものであるが、個人としてはこれまでの生活スタイルを、勤務のあり方だけでなく、趣味も含めて生活全般の見直しを迫るものだ。
政府は視野に入れているかどうかわからぬが、この度の新型コロナウイルスによるパンデミックは仮に一二年で終息するとしても、また別のウイルスや細菌によるパンデミックを考えると、「新しい生活様式」を常態的なものとすべきかもしれない。なぜなら今世紀に入ってからでも三度のコロナウイルスや新型インフルエンザによるパンデミックがあいついだ。さらには今後より危険性の高い感染症に襲われないという保証はない。気候変動も新たな感染症を惹起するという指摘もある。
常に感染症を意識した生活スタイルを作ることは、果たしてできるのだろうか。

先のアメリカ防疫センターの報告は合唱団におけるクラスター感染であるが、前に述べたようにこれは舞台芸術全般に当てはまることだ。芸術のあり方そのものが問われている。






2020年5月9日土曜日

コロナ禍の中の合唱

最後のブログ投稿から3年経った。この間、老後としては少し忙しかったこと、心疾患治療、転居と、ブログを投稿する気持ちの余裕がかけていた。
今後はあまり間をおかずに投稿したいものだと考えている。

今後もブログ名「合唱雑記」にとらわれず、自由なテーマで話題を提供するつもりである。

さて、先ずは合唱の方だが、ご多分に漏れず今年(2020年)二月に始まった新型コロナウイルス感染症の大流行により、岐阜県の合唱団員に感染が広まったことにみられるように、密閉、密集、密接、いわゆる三密にぴたり当てはまる合唱活動は、日本全体どころか世界的流行(パンデミック)となった三月以降は、世界中で活動が停止してしまった。
活動停止して二ヶ月半、合唱仲間から聞こえてくるのは早く皆と一緒に歌いたいとの声ばかり。一方、合唱団員の中には歌どころじゃないという人もおられるだろう。これだけ経済活動も停止すれば収入が激減する人、職を失う人もいるだろう。早く歌いたいと思える人は幸せの部類だ。

合唱は本質的に三密無しには成り立たないアンサンブル芸術であるが、三密を避け、サイバー空間でオンライン合唱が出来まいか。そんな試みが今各地でなされている。
その先鞭を付けたのはたぶん東京混声合唱団だろう。KDDIの協力で作ったという動画がYouTubeにアップされている。これに触発されたのかどうか解らぬが、似たような動画が結構多く見られるようになった。海外でも同様だ。
しかし、同じ複製芸術としてもライブ録画とは出来が雲泥の違いに見える。やはり同じ空間で息づかい、眼差し、空気感を感じながら成り立つアンサンブルは、仮想空間では所詮無理なのだ。

コロナ禍の中、フリーランスで働くこのジャンルの人たちも大幅な収入減となってしまった。欧米に較べ、芸術活動への公費支出が乏しく、寄付文化のない日本では芸術文化の衰退につながりかねないこの度の困難に、政府は有効な手立てをするのだろうか。所属する合唱団でも指揮者、ピアニストへの手当をどうするかが今後の課題となっている。

2017年6月13日火曜日

J. シュトラウスの「鍛冶屋のポルカ」を歌う

所属する合唱団の定期演奏会が近づいた。
本番に向けステージでリハーサルをしたが、まだ歌い込みと「振り」が不十分なのが気にかかる。
この度の演奏会では「シュトラウスを歌う」と題するステージが組まれ、若干の「振り」が加わった。
歌うのが精一杯の高齢者の、何とも様にならない仕草がお客さんの微笑を誘うことになればいいのだが。
「シュトラウス」ステージの一曲がヨーゼフ・シュトラウスの「鍛冶屋のポルカ」。本来器楽曲のこの曲を日本語歌詞の合唱曲として歌う(薩摩忠作詞。石丸寛編曲)。
全体の構成を担当する先生から、主役は歌なので、金床をたたく鍛冶屋は演出過剰にならないように、シンプルにとの注文が付いた。鍛冶屋役二人は試行錯誤を重ねて今日まできたので、戸惑いを覚えただろう事は想像に難くない。団員の中にはこのままでいいのではないかとの声も少なからずある。団長は苦慮するところだ。

あらためてYouTube 動画サイトで様々な「鍛冶屋のポルカ」を見てみた。おそらく鍛冶屋役の二人もこれらの動画を参考にしながら、自分たちの合唱団の「鍛冶屋」を作ろうと工夫を重ねたはずだ。
元来きまじめなクラシック畑の人たち、特に器楽分野の人たちは、音楽以外の要素が入ることに消極的であるようにうつる。それでもこの「鍛冶屋のポルカ」では、多くの場合鍛冶屋扮するところの打楽器奏者が嬉々として「演じて」いる。時には、オーケストラメンバー以外が演じているのではと思われるものもある。そこでは主役は完全に鍛冶屋だ。

ウィーンフィルの演奏では、ボスコフスキー指揮のウィーンフィル・ニューイヤーコンサート1971、クライバーの1992年、マゼールの1994年、近年では2012年のヤンソンス指揮のものが動画で見られるが、マゼールとヤンソンスは自ら金床をたたいている。クライバーの「鍛冶屋」は金床は単なる打楽器の一つと言わんばかりに、生真面目に正確に金床をたたいている。演出たっぷりなのは1971年のボスコフスキーで、鍛冶屋役の奏者はコスチュームも替え、大袈裟に金床をたたくと、その前のオケメンバーが驚いて飛び上がる仕草も加わる。ボスコフスキーは指揮台から客席を振り返り、「どうです、楽しんでいますかあ」言わんばかりの表情。三つを較べると、クライバーは客の注意が自らのパフォーマンスから離れるのを嫌っているかのようで、楽しさに欠ける。自分でもたたくマゼールは打楽器奏者との共演。ヤンソンスの2012年では指揮台の前に金床を置き、音を出すことがない指揮者も、この時ばかりは奏者の仲間入りと言った具合。

ウィーンフィル以外の演奏ではどたばたでコミカルな演出も見られるが、演出はほぼパターン化されている。クライバーのウィーンフィルがそうであるように、ただ打楽器奏者が正確にたたくだけのもの。奏者が、帽子を被り、前掛けをする、途中でビールを飲み、汗を拭く仕草を加えるもの(ボスコフスキーの1971年)。さらに金床の調音(実際は無理)。
演出に応じて用意されるものは、音程の異なる二つの金床、ハンマーの他、小物として、前掛け、帽子、ビール、タオル、さらにはピッチを調整するためのヤスリ、刷毛まである。特大のハンマーを用意する場合もある。

この度のリハーサルでも客席から金床のピッチが指摘された。ウィーンフィルのは特注で作らせたのだろうと思うほどだ。ピッチの問題を演出に取り込んでいる動画もある(ピッチを合わせるために、金床を削る仕草をする)。
われわれの演奏会のために用意した金床は団長が鉄道会社に掛け合ってもらい受けてきたものだが、昔は田舎ではどこの家にもレールを切った金床があったものだ。ホームセンターに行けばアンヴィルが売っているが、たたき較べるほど多くは置いていない。

さて、指導の先生は主役は歌とおっしゃるが、この度の歌詞の内容から見ても鍛冶屋が主役でもいっこうにおかしくない。日本語題名が「鍛冶屋のポルカ」だからではない。この命名は誰によるものなのかは知らないが、ドイツ語はFeuerfest。「耐火の」と言う意味の形容詞。中国語でもこのポルカを「耐火的」と呼んでいるようだ。
この曲の解説にあるように、工具メーカー経営のWertheim が盗難に遭い、それをきっかけに耐火金庫の開発・発売を開始、累計20,000個販売を記念して、ヨーゼフ・シュトラウスにこの曲の作曲を依頼、お祝いの舞踏会で作曲者自身の指揮による初演が行われた。Feuerfest 題されたのも、この金庫の発売に先立つ宣伝として、コンスタンティノープル(イスタンブール)で、耐火金庫の耐火公開実験を行ったことにある。

ドイツ語 Fest は名詞としては「祝宴」の意味でもある。そのため、ウエブサイト中には、Feuerfest を英語でfire festival と訳しているものがあるが、これは間違い。しかし、派手な金床の音が主役のこの曲は祝祭的な響きを持っているように感じられる。そう考えると、クライバーの「鍛冶屋」はあまりに行儀の良い、退屈な演奏に感じるのだが。


                                                                 2017-6-13  

2017年6月6日火曜日

「テロ等準備罪」法案、そして「加計学園」問題

 通称「テロ等準備罪」法案が参議院に送られ、審議が始まった。「共謀罪」の通称が使われる事があるように、何ともわかりにくい法案だ。過去に何度か廃案になった「共謀罪」法案が安倍政権のもとで装いも新たに復活。正確には「組織的犯罪処罰法改正案」というらしい。277の組織的犯罪を計画し、資金調達などの準備行為を処罰する内容だ。277もの例を挙げられるように、広範囲の組織的犯罪が対象になる。
 問題はこのような組織犯罪が実行に移された後ではなく、準備段階が取り締まりの対象になる点である。さらに、組織的犯罪集団かどうかを判断するのはあくまでも捜査機関であること。準備段階からの捜査となると、当然内偵などスパイ行為が必要になる。一層国民監視が強まることは必至だ。平成の「治安維持法」と呼ばれるゆえんだ。
 おそらく、この法案が成立すれば、早晩新たな「公安警察」が組織されることになるだろう。少なくとも、警察組織の大幅な改編と増員が必要になる。端的に言って、この法案は、国民の暮らしがより安全になるものなどではなく、戦前の治安維持法がそうであったように、国民に刃向かうものだ。

 かつて東欧圏の社会主義国家には市民を監視、密告を奨励する保安機関が存在した。旧東独では通称「シュタズィ」(Staatssicherheitsdienst の略。国家保安省)とよばれた。人口1600万人ほどの国家に、2万数千人の正規職員の他に、いわゆる協力者と呼ばれるその数十倍もの密告者が日常的に働いていた。電話の盗聴、郵便の開封は当たり前、それらを前提に市民は声を潜めて生活していた。
ロシアのプーチン大統領は旧ソ連のKGBの出身だが、旧ソ連だけでなく、お隣中国にも「国家安全部」と称する国民にとっては全く安全でない公安組織がある。筆者をウイグル自治区に案内してくれた留学生が「安全部」職員から事情聴取を受け、とても怖かったと述懐していたことを思い出す。また他の留学生は日本人の友達を伴ってウイグル自治区に帰ったところ、やはり安全部に呼ばれ9時間に上る聴取を受けたそうである。日本人の友達も3時間拘束されたという。

 今の中国がそうであるように、権力が腐敗してくると、国民の批判を恐れ、異論を廃し、強権的に国民に向かうようになるのは古今東西を問わない。国民の批判の先頭に立つのはメディアだが、当然このよう権力はメディア支配を強める。日本で最大の購読者を持つ新聞が政権の御用達と化しているのは非常に危惧すべき事態だ。


 「森友学園」に始まって、今「加計学園」問題が政権を揺るがせている。「共謀罪」法案の重大性に比べれば、小さな権力乱用、腐敗問題だ。しかしこの度の問題を通してこの政権を担っている人物たちがどのように権力を乱用するかがよく解る。
 過去50年あまり獣医学部の新設がなかったのだから、さらにはペットブームは相変わらずで、獣医師をもっと養成する必要があるだろう、そのように考える国民も多いだろう。
 現在一年に約1000名の獣医師が誕生する。今から約30年あまり前に、それまで、獣医学部で4年間の教育を受ければ、国家試験を受験することができたものを、医師免許と同様、6年制にあらためられた。
 獣医師の地位向上の意味もあっただろうが、それよりも獣医師の過剰を緩和するために実質2年間新規の獣医師を世に送り出さないことで調整を図った。獣医師の関係省庁は農水省だが、農水省は業界団体の強い要請があり、文科省に対しても獣医学部の新設、増設を認めないよう働きかけてきた。
 現在大学は少子化の影響で、約半分の大学で定員割れを起こしている。いわゆる団塊世代二世の1973年生まれは206万、昨年はついに100万人を割った。団塊世代二世の時代の大学定員はほとんど変わらない。
 この度の「加計学園」が計画している獣医学部定員は160名。国公立大学に比べて多い私学の獣医学部定員でも120名程度だから、他の関係私立大学は戦々恐々としているだろう。農学部、畜産関係学部を持たない学校法人の獣医学部新設も異常なら、その定員の多さも驚くほかない。
 通常私立大学のキャンパスが経営的に成り立たせるには学部、大学院の総定員数は2500~3000名は必要だ。この度の計画ではせいぜい1000~1100名であろう。高額の学費を設定しなければ成り立たない。学生を集めるのも大変であろうが、教員を集めることにも困難が伴うことは容易に想像できる。学生の質も、教員の質も多くは望めない。この度の加計問題はなんとも不思議に見える。

 獣医学部新設を認めない姿勢を取ってきた文科省は間違っていない。強権的な性格を剥き出しにしつつある安倍政権のもとで、その文科省は今蜂の巣をつついたような状態ではなかろうか。文部行政を冷ややかに見てきた筆者も、このたびは情報を漏洩した前川前次官を始め文科省職員にエールを送りたい気持ちだ。
 おそらく安倍官邸は報復人事を敢行するであろうが、このような時こそ卑劣な人間をとくと拝見できるものだ。


                                      2017-6-6

2017年5月14日日曜日

「不都合な信実」から目をそらすことなく~Jリーグ浦和レッヅ対鹿島アントラーズの試合をめぐって



久しぶりのブログ。しかし話題はサッカーの試合。おつきあいを。

54日、Jリーグ第10節浦和レッヅ対鹿島アントラーズの試合が浦和のホーム埼玉スタジアムで開かれた。いつもそうなのだが、私はこの試合をTVで観戦した。昨年、年間勝ち点では鹿島を大きく上回った浦和が、チャンピオンシップで鹿島に敗れ、2016年Jリーグ王者の座に付くことができなかった。それだけに、浦和にとってはこの10節の対鹿島戦は2017年Jリーグ序盤戦とはいえ、どうしても負けられない一戦であった。一方の鹿島にとってもライバルとの一戦は勝ち点6にも匹敵する戦いと位置づけ、埼玉スタジアムの乗り込んできた。
試合は当然のことながら、緊張感に満ちた好試合であった。ボールのキープ率では浦和が上回り、浦和が押し気味で試合は推移しているように見えたが、鹿島は浦和に対して決定的なシュートを打たせず、決定機はむしろ鹿島に分があった。前半24分鹿島アントラーズの金崎のシュートが相手DF森脇の足にあたってコースが変わり先制する。後半に入ると浦和の焦りも手伝って鹿島の堅い守りを崩せず、結局この前半の金崎のゴールが決勝点となり、浦和は前節大宮戦に続く連敗となった。

このライバル同士の試合、人気の浦和対実力の鹿島の一戦、好試合に一つ大きな汚点を残したトラブルがあった。後半、残り15分を切った頃、浦和サイドでの攻防で、こぼれたボールを鹿島の土居がコーナーフラッグ付近にボールを運び、時間稼ぎのためのボールキープに入った。このボールを奪い取ろうとする浦和の槙野と競り合い、そこに前線から戻ってきていた興梠も加わり、もみ合いになった。微妙な判定ではあったが、土居のファールが宣告され、浦和ボールで再開されるところであったが、焦りが手伝ったのだろう、興梠がこのもみ合いの中で、土居を突き倒してしまった。これが事の発端である。
鹿島キャプテン小笠原が主審にイエローカードを出すようアピールする。金崎、レオ・シルバ、鈴木も興梠に詰め寄ろうとしているが、試合巧者の鹿島らしく、この機をとらえて時計を進めようとしていて、それほどエキサイトしているようにも見えない。ところが、そこへ浦和DFの森脇が走り寄り、レオ・シルバに絡む。これにシルバの表情が急変するのが見て取れる。森脇にシルバを挑発するような言動があったと容易に察せられる。この直後、主審にアピールしていた小笠原がそれに気づき森脇に詰め寄ろうとするが、浦和のDF那須や西川、ラファエル・シルバが両者の間に入り、浦和ボールで試合が再開する。
強いライバル関係にある両軍による緊張感のある試合とはいえ、エキサイトが昂じた荒れた試合などではなかった。問題の場面でも、両軍入り乱れての乱闘騒ぎになったわけでもない。浦和のキャプテン阿部や当事者の土居もこの揉め事を傍観している様子がうかがえる。明らかに、森脇の言動がシルバを怒らせ、小笠原の問題提起につながった。
アントラーズ勝利に終わった後、クールダウンした小笠原がメディアに対して、問題の場面で、森脇選手がレオ・シルバに「くせえな、おまえ」と侮蔑的な言葉を吐いた、と訴え、これは今回に留まらず、これまで繰り返されてきたことだと問題提起した。これに対して、森脇はこの暴言自体は小笠原に向けたものだといい、シルバに対してのものではない、と否定した。これらについてはネットでも問題の映像共々大きく取り上げられているので詳細は省く。
鹿島アントラーズはマッチコミッショナーを通じて、Jリーグに森脇選手の言動について規律委員会において調査するよう求めた。一方浦和レッズも当事者の森脇や他の浦和の選手への聞き取りを行った結果として、森脇選手の言い分を否定するものはなかったと報告した。
Jリーグ規律委員会は両軍およびこの試合のレフリーからの報告、さらには森脇選手と小笠原選手のヒアリングを行い、森脇選手の侮蔑的な発言について、それが誰に向けられたものかは不明として、森脇選手の2試合出場停止処分で決着を付けた。この処分についてネット上では様々な評価がされている。単なる暴言と考えるなら、重いともいえるし、過去の海外の例を含め、妥当と判断することもできる。
しかし、小笠原選手の問題提起に対して、規律委員会はその組織にふさわしい調査をしたのか、と言う点で禍根を残したといえる。森脇の暴言について、よく言えば疑わしきは罰せず、の原則に従ったともいえるが、それは誰もが納得のいく調査が前提だ。映像を見れば森脇が最初に絡んだのはレ・シルバに対してのものであることは明らかだ。ならばなぜレオ・シルバからのヒアリングを行わなかったのかが大きな疑問となる。小笠原の、さらには鹿島側の問題提起もポイントはそこにあったのだから、当事者からのヒアリングは欠かせないはずだ。

この度の決着は、浦和はもとより、Jリーグにとっても外国人選手差別につながらない結論が先にあったとしか見えない。その点では運命共同体としての両者の思惑が一致している。浦和の報告もこの結論を先取りしているようにも見える。小笠原の聞き取りは40分、森脇のそれは90分と伝えられている。しかし森脇によると、自分の言い分をヒアリングに於いて十分聞いてもらえた、という。規律委員会とはいえ、査問ではなく、ゆるい聴聞であったようだ。問題提起した鹿島の顔を立てつつ、森脇の対象不明の侮蔑的発言を断罪する、まるで森脇の独り言であったかのように。

2015年10月27日火曜日

Lotosblume は「蓮」か、はたまた「睡蓮」か  ー シューマンの「蓮の花」を歌う


所属する合唱団で、ハイネの詩によるシューマンの「蓮の花」の練習があった。
この曲はもとより合唱曲ではないが、増田順平先生が合唱曲に編曲したもの。歌詞はしのかおるさんによる。

さて、原詩のLotosblumeだが、大半の独和辞典には「蓮」とある。しかし、かつて「木村・相良独和辞典」として大勢の学徒に親しまれた博友社の辞書では、Lotosblumeに「睡蓮」の日本語訳をあてがっている。この辞書の後に出版された比較的新しい辞書ではいずれも「蓮」としている。それによったのであろう、ネット上のこの詩の日本語訳も大半が「蓮」としている。
しかし中に一つ、以前は「蓮」としていたものを訂正と断って「睡蓮」に書き換えたものがある。その理由はつまびらかではないが、もしかすると原詩の中の第2連「月はその光で蓮を目覚めさせ、蓮はにっこりとしてヴェールを取って月にその慎ましい顔を見せる」から、夜咲く「睡蓮」を考えたのかもしれない。
「蓮」は日中に花開くものであろうし、「睡蓮」にしても昼間咲くものが大半だが、北東アフリカを原産とする和名「夜咲き睡蓮」別名「エジプト睡蓮」は夜半に白い花を開くという。ハイネはこの夜咲き睡蓮を歌ったのであろうか。

ほぼ半世紀ほど前になろうか、ほんの短い期間教えを受けたことがあるR. シンツィンガァ先生が編んだ『ドイツ詩集』(第三書房刊)の中で、先生は「蓮は夜明けに咲くが、ハイネは多分実際の蓮は見たことが無く、夕暮れに花開くと思っていたのだろう。ロマン派の詩人には現実のことはそれほど意味をなさないのだ」(69-70頁)と書いている。

先に触れたように、ドイツ語Lotosblumeの訳語として独和辞典は二派に分かれるのだが、この場合学名をもとにすれば混乱を避けられるであろう。
ドイツの百科事典やDudenなどの辞書ではLotosblumeの学名をNelumboとしている。日本語の「蓮」を百科事典で調べると同じ学名が挙げられている。一方、「睡蓮」を意味するドイツ語Seerose の学名はNymphaea。学名をもとにすれば、ドイツ語のLotosblumeは「蓮」とすることに疑いがない。やはり、ハイネの詩的誤解なのだろうか。

別の可能性として、ハイネは夜咲きスイレン(学名Nymphaea lotus)を知っていて、Lotosblume を広義に捉えていたのかもしれない。
百科事典によればSeerose の範疇にLotosblume も入るぐらいだから、異国的な花にはSeeroseよりもLotosblumeあるいはLotus とギリシア語由来の語をあてがったこともかんがえられる。

シューマンの歌曲を合唱曲に編曲して歌うこの度の試み、日本語の詩も良いのか、歌って楽しいし、聴いても良い曲に仕上がりそうだ。再来年のステージが楽しみだ。
                                                                                 2015-10-27

2015年9月23日水曜日

O Holy Night ー さやかに星はきらめき



暮れ恒例の「第九」はホール改修のため今年は取りやめとなり、代わりにクリスマス曲を中心に子どもたちと一緒のステージを組むことになった。

合唱団員の大半が非クリスチャンであることを考慮したのであろうか、音楽監督はカワイ出版の「リーダーシャッツ クリスマス曲集」の中からすべて世俗的なクリスマス曲を選んだ。
その1曲が標題の O Holy Night 「さやかに星はきらめき」。

筆者自身はこの曲のことを、ああ、聴いたことがある、という程度であったが、あらためてネットで調べてみると、キリスト教徒はクリスマスの折に教会でよく歌っているようだし、一般の人にも「きよしこの夜」や「ジングルベル」と並んで親しまれてきた曲であることを知った。
YouTube にあたってみると、実に大勢のオペラ歌手やポップシンガーたちが様々な編曲で歌っている。その中から録音状態が良く、気に入った14,5ヴァージョンをCDに録音して楽しんでいる。

この曲は教会の礼拝とは関係なく、世俗的な行事やクリスマスの喜びを盛り上げるために歌われるもののようだが、日本キリスト教団編の「讃美歌第二編」にも入っている。
今回歌うのは、信長貴富編曲、海野洋司訳詞のもの。「讃美歌集」所収の曲は、同様に混声四部ではあるけれども、訳詞は由木康、編曲は「讃美歌編集委員会」によるもの。

ところで、この曲はフランス生まれで、原題はCantique de Noël 「クリスマスの歌」だが、冒頭歌い出しの言葉から”Minuit, chrétiens"ともいう。もともとフランスの詩人プラシド・カポー Placide Cappeau(1808 - 1877) が1843年、ロクモールにある教会オルガンの修復を祝うイベントのため作詞、ほどなくして、バレー曲「ジゼル」で知られる作曲家アドルフ・アダンAdolphe Adam (1803 - 1856)がこの詞に曲を付けた。
この曲が世界に広まるのはボストン生まれのジョン・サリバン・ドワイト John Sullivan Dwight(1813 - 1893)の英訳詞 "O Holy Night"によるところが大きい。訳詞とはいえ、ドワイトはかなり自由に訳している。
YouTube で聴くと、オペラ歌手は結構原語で歌っているが、圧倒的に英語によるものが多い。

詞の内容はイエスキリストの降誕を祝うクリスマス讃歌だが、なんといってもその旋律の親しみやすさと美しさが人気を集めるのだろう。歌手たちが気持ちよく、伸びやかに歌っていることに惹かれる。
YouTube ではドミンゴとパヴァロッティの二重唱も聞きものだが、今をときめくペルー出身のテノール、 フアン・ディエゴ・フローレスがよくその美しい高音を聞かしてくれる。彼はまたエリナ・ガランチャともデュエットしている。マライア・キアリーも人気があるが、アクセスが最も多いのはケルティック・ウーマンの Holy Night。サラ・ブライトマンも歌っているが、残念ながら録音状態が良くない。スタジオ録音のものがあれば聴きたいのだが。少年合唱団リベラ Libera や ケンブリッジのKings College合唱団が歌うO Holy Night が心地よい。イギリス版スター誕生で一躍時の人になったスーザン・ボイルも歌っているが、音作りに手が入りすぎ。
以上のもののに比べて、われわれが歌う信長版「さやかに星はきらめき」は、この曲がもつ伸びやかさにやや欠けている気がする。これは時代が求める今風の編曲かもしれないが。


2015年9月20日日曜日

 安倍政権にレッドカードを! ー「安全保障」法案成立  



参議院に一縷の望みを抱いたが、それもむなしく、とうとう違憲安保法案が成立した。
成立したとはいえ、国会審議における政府説明のでたらめさ、強引な国会運営と強行採決を考えると、この法案は正当性を欠いたものと言わざるを得ない。
何より憲法違反であること、さらに、戦後70年日本が平和国家として積み上げてきた外交、防衛政策を大きく転換させるにもかかわらず、各種世論調査の結果や60年安保以上の反対の声を無視し、強引に成立を図った事に見られるように、この政権が民主主義を蔑ろにしていることが正当性を損なっている。

安倍政権がもたらしたものは平和国家としての日本ブランドの毀損だけに留まらない。
法案が成立した直後の報道によれば、日本の国債の評価が一段階引き下げられ、韓国、中国よりも低くなった。国の借金が1千兆円を超え、財政破綻の危惧が高まってきたことを物語っている。この度の法案成立により、軍事費が増加することは必至で、そのことがますます財政を苦しくすることが明らかであるからだ。

前のブログにも書いたが、「集団的自衛権行使容認」に伴う関連「安保法案」の狙いは、端的に言って、日米軍事同盟の強化である。
安倍首相がいう抑止力云々はこれをもとにしている。抑止力が働くのは弱小国に対してであり、大国に対しては有効とはいえない。むしろ軍拡競争を招く。いわゆるミリタリーバランスも際限のない軍拡競争を引き起こす。
少子高齢化著しく、借金大国の日本では財政的に軍拡競争に耐えられない。

国際環境の変化なる言葉もこの度の法案趣旨説明で使われた言葉だが、台頭する中国を念頭に置いたものであろう。
中国を仮想敵国にする日米軍事同盟強化は東アジアの緊張を高めるだけである。
軍拡競争に耐えられなくなり崩壊した旧ソ連の共産党独裁体制の前例に倣って、日米結託して中国に軍拡競争を仕掛けるつもりでは無かろうが。

安倍政権下で起こったことでわれわれが看過できないことの一つに、メディアの劣化である。
一部のメディアが安倍政権を支えたと言っても過言ではない。
それは名指しするなら、読売新聞、産経新聞、同系列のテレビである日テレ、フジテレビであり、さらにはNHKも一大禍根を残した。これらのメディアはジャーナリズムの精神を忘れたかのような報道振りであった。
NHKの信頼回復は容易ではない。新聞は購読取りやめで市民は対抗できるが、受信料支払い拒否はそう簡単ではないだけに、税金ではなく、国民各世帯が支払う受信料で成り立つNHKの罪は重い。
しかしこれらの有力メディアの存在にもかかわらず、世論調査の結果を見ると国民の大半は健全な判断をしていたようだ。

安倍政権だけのせいには出来ないかもしれないが、与党自公の劣化も著しいことが明らかとなった。
かつての自民党はリベラル勢力が主導していたが、今は安倍晋三に集まった極右勢力に乗っ取られた風に見える。今後、党の中のリベラルバネが働かない限り、遠からず政権を失うであろう。
また公明党は結党以来の危機を迎えるだろう。安倍政権に加担したことで、得るよりも失うことの方が大きいはずだ。

過去3年の安倍政権の歩みを振り返ると、彼が言う「戦後レジュームからの脱却」なるものが見えてくる。
日本版NSCの創設、特定秘密保護法の制定、防衛装備移転三原則、ようするに武器をより容易に輸出できるようにすること、道徳教育をはじめ、より国家主義的な教育への方向付け、派遣労働など、労働者保護の抑制、そしてこの度の安保法案である。
このように並べると、これらは現行憲法の基本精神から乖離した性格を持つことがよく見える。それはそうだ、安倍首相は憲法「改正」の意図を隠そうともしないのだから。
しかし、逆にこの度のことで、憲法改正がより困難になったように見える。少なくとも安倍政権のもとでは出来ないであろう。

さて安保法案の成立をうけて、今後何が起こるだろうか。
近未来あり得ることとして、来年早々にも自衛隊が、中東やアフリカに派遣されるであろう。
今シリアなどからの難民が大勢ヨーロッパに押し寄せている。難民問題は今や待ったなしの状況だ。
この難民発生の原因を取り除くためには、もはや軍事的にシリアの内戦を停止させることと、IS 国(イスラム国)を制圧するほか解決法が見いだせない。今は空爆のみだが、地上軍も投入されるかもしれない。
いずれにしても、同盟国日本はアメリカなどの派遣要請を断れないであろう。アフリカもしかり。

普通に考えて、内戦下に自衛隊が派遣されれば、隊員に犠牲者は出るだろう。
もしかすると犠牲隊員の家族が政府を相手取って訴訟を起こすかもしれない。
それは安保法案の合憲性が問われる訴訟になるはずだ。

安倍一派に乗っ取られた自民党は、病気で安倍首相が退陣しない限り、少なくとも来年の参議院選挙までは政権を維持するだろう。
選挙を有利に運ぶためにも安倍政権は、今後安保法案など無かったかのごとく、一転景気回復をテーマに掲げるだろう。その中で最大の問題は消費税10%への増税問題だ。
安倍首相は再度先送りしたいのであろうが、先にも触れたように、財政再建が待ったなしの中、財務省の抵抗を抑えて先送りできるかどうかが問われる。

60年安保以来最大となった市民運動が今後どのように展開するのか、注目したい。
いわゆる党派性を超えた大きな市民運動はこれまで経験したことがない。これが一過性のものなのか、それともヨーロッパのように、議会も政府も無視できない運動として定着していくのか、それはやがて来年の参議院選挙で試されるであろう。
今のままの自公体制が来年以降も続くようであれば、日本はいよいよおかしな方へ向かう。
市民運動の側も知恵を絞って持続したものにする必要がある。そのためにはまず党派性を排除することだ。それには最大公約数的なスローガンを掲げることが出来るかどうか。
当面は安保法案に賛成する議員(野党も含む)の落選運動だろう。
若者たちに期待したい。

                                    2015-9-20

2015年7月16日木曜日

「安保法制」採決強行ー民主主義の否定、法治国家への侮辱

強権的で、民意に侮蔑的に向き合い、現行憲法を侮る姿勢を続けてきた安倍政権なら十分予想されたことではあるが、昨夜(7月15日)衆議院特別委員会で「安保法制」法案が強行採決された。
これにより衆議院本会議を経て参議院に送られ、仮に参議院で否決されたとしても、「60日ルール」で成立する運びとなるだろう。

各種世論調査ではこの法案に反対する人が過半数を超え、憲法の専門家のほとんどが憲法違反であると判断している中での強行突破。
民主主義を否定し、憲法に基づく法治を足蹴りにした。

この度の法案は先の集団的自衛権行使容認の閣議決定にさかのぼる。この事については昨年6月のブログ(2014年6月17日)に書いたので繰り返さない。

アメリカ合衆国大統領就任式では、合衆国憲法遵守を誓約する儀式を行う。
日本の憲法でも第99条で、天皇をはじめ、国務大臣(首相も)、裁判官、国会議員、公務員は憲法を尊重し、擁護する義務を負う、とうたっている。
現行憲法を尊重遵守する気がないのであれば、国会議員を辞任するか、少なくとも国務大臣就任は辞退すべきだ。
安倍首相は現行憲法に否定的であることを隠そうともしない。

安倍首相の祖父岸信介も、改憲に取り組んではたせなかった。
その遺志を継ぐかのように安倍もまた改憲をもくろんでいる。
遺志を継ぐと言えば美談に映るが、祖父岸もまた民意を無視して、1960年日米安全保障条約の国会批准を強行した。歴史は繰り返すだ。
奇しくも、この度の安保法制は日米安保条約の中身を根本的に変える意味を持つ。

中国など日本周辺のアジアの国から見れば、これまでの日米安全保障条約は日本の軍事大国化を防ぐものと見えただろう。それは日本と戦ったアメリカの望むものでもあった。
しかしアメリカの相対的な弱体化の中で、「世界の警察官」としての役割を日本にも分担してもらいたい、というのが、アメリカの本音となってきた。
日本としても、中国の経済面だけでなく、軍事面でも大国化してきた中で、日本の安全保障を高めるためにも、より一層アメリカとの軍事同盟関係を強める必要があると外交当局をはじめ、安倍政権は判断しているのであろう。
筆者はこの判断をいわゆる戸締まり論として理解は出来るが、支持しない。

アメリカとの軍事同盟強化は一見抑止力の強化と映るかもしれない。しかし中国のような大国には抑止効果より、中国をより一層軍事大国化に走らせ、あげくは軍拡競争につながる。民主主義国家日本の財政はこれに耐えられない。
国家関係が複雑に入り組んでいる中では国家間の戦争の危惧は後退しているが、外交関係が緊張すれば、やがて軍事的な緊張につながる。

安倍首相は中国を仮想敵国と見なしているのは明らかだ。中国も安倍政権が進める一連の安保政策に警戒感を抱いているだろう。
戦略的互恵関係の言葉がうつろに響く。
敵意には敵意しか戻ってこない。これは互いに破滅への道だ。

安倍政権の一連の政治を見ていると、ヒットラー・ナチスドイツがどういうものであったのか、理解を容易にする。歴史から学ぶのではなく、逆に現代から歴史を学ぶことが出来るというわけだ。

民主党政権の未熟さと体たらくから、いわゆる決められる政治を求めた結果、安倍政権が生まれた。この政権は戦後70年に及ぶ保守政治を根幹から変える、まるでクーデタのような性格を帯びている。
安倍一派に自民党が乗っ取られ、政権が乗っ取られたように見えるのは筆者だけではあるまい。

                                                                        2015年7月16日

2015年4月22日水曜日

平和を祈念して『夕焼け』を歌う


 所属する合唱団で、今夏のステージで歌う曲の一つに高田敏子作詞、信長貴富作曲の『夕焼け』(カワイ出版)を歌うことになった。合唱指導指揮の先生が、戦後70年の平和な歩みを蔑ろにするような空気への危機感から選んだ、という趣旨の発言をされた。この趣旨に完全に同意したいと思う。
 この曲はもともと女性合唱曲として作曲されたが、合唱団京都エコーの委嘱で混声合唱曲に編曲されたと奥付にある。わが合唱団も混声で歌う。
 信長氏自身のコメントにあるように、この曲は平和への祈念を合唱を通して共有しようという歌で、声高に反戦を訴えるものではないが、一つの反戦歌と理解して良いだろう。

 合唱経験の浅い筆者には反戦合唱曲、プロテストソングの合唱曲といってもあまり思い浮かばない。すぐに思いつくのは、金井直作詞、岩河三郎作曲の『木琴』くらいだ。この曲は一頃はNHKの合唱コンクールの自由曲に選ばれることも多く、また若い世代では校内合唱コンクールで歌った方も多いことはYouTubeでも伺える。
 中学校に勤務した経験を持つ連れ合いに聞いたところ、校内合唱コンクールでこの曲を涙を流しながら懸命に歌った生徒たちの姿を今も思い出すという。
 この詩は中学国語の教科書にも載っていたし、道徳の教材にもなっていたともいう。今の安倍政権のもとではこのような詩ですら学校教育から排除されかねない。

 話は一転するが、安倍政権による「集団的自衛権」についての強引な憲法解釈の変更以後の「安全保障」法制が、国民不在のまま、と言うより、矢継ぎ早に繰り出される諸法制で国民を目くらましにしているとしか見えないやり方で進んでいる。
 前にもこのブログで書いたが、「特定秘密保護法」にしろ「集団的自衛権行使容認」にしろ、アメリカのブッシュ(父)大統領時代の湾岸戦争での苦い経験が背景にある。多額の戦費をアメリカに供与したにもかかわらず、人的貢献の求めに応じなかったことでアメリカの不興を買った。特に外務官僚にそれがトラウマとなったのだろう。人的貢献とは端的に言えば自衛隊員の命を差し出すことになりかねない事だ。
 すでに書いたのでここで繰り返さないが、東アジアの情勢を鑑みて、日米の軍事同盟をより確かなものにしたい、と言うのが外務官僚の安全保障政策なのだろう。自衛隊の海外派遣目的の一つに邦人救助がとってつけたように付け加えられたが、自衛隊の元幹部からもこれに強い疑問が投げかけられる始末だ。
 戦争中の他国軍を「後方支援」するための「国際平和支援法」なるものも、想定する事態が机上の空論にもとづく。外務官僚や政権幹部、政権与党の諸氏の貧しい想像力を少し補うことができるスペイン映画を紹介したい。

 2012年制作の映画『インベーダー・ミッション』はブッシュ(子)大統領のイラク戦争下、主人公の軍医は友人の軍医とともにスペイン政府によるアメリカ軍後方支援としてイラクに派遣される。
 負傷したイラク女性をアメリカ軍護衛で病院へ搬送の途中、地雷攻撃に合い、さらにゲリラの襲撃から民家に逃げ込む。その際恐怖と混乱から二人はその民家の親子を殺害してしまう。
 この一連の出来事は恐怖と怪我のせいで、主人公は記憶を失ったまま帰国する。怪我から回復するにつれ、その時の出来事が断片的に思い出すようになる。
 そんな折、政府当局からイラクで経験したことの秘密を守るよう署名を求められる。秘密を漏らせば国家反逆罪に問われ服役することになる、と脅される。秘密を守れば職務に復帰でき、怪我の保障も得られると説得される。
 断片的だった記憶をつなぎ合わすため、一緒に行動していた友人と連絡を取ろうとするが、なぜかその友人はそれに応えようとしない。実は瀕死の重傷を負った主人公を救ったその友人は、戦争犯罪となり得るある出来事の一部始終を密かに携帯に録画していたのだ。
 その出来事とは、二人が民家に逃げ込んだ後、ゲリラ攻撃の報復として、二人の軍医の護衛にあたっていたアメリカ兵が集落の住民全員を銃殺、殺さないでとつぶやく幼い女の子まで射殺した事件だった。
 二人は当局によって監視され、映像の存在を当局の知るところとなり、追跡を受ける中、友人は殺され、友人の携帯を手にした主人公は逃げ延びる。当局に捕まる直前に携帯映像を放送メディアに送った主人公は刑務所に収監されるところで幕を閉じる。

 あえてこの映画の詳細を記したのは、この映画が集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法などの安全保障政策と重なる事態が描かれているからだ。今進められている『安全保障』法制が成立すれば近未来に起きうる事態がリアルに見られるのだ。
 
 この映画はWOWOWが3月に放映したものを筆者は観たのだが、時期的にタイムリーな放映であった。WOWOW番組編成者の心意気が感じられる。
                                 2015年4月22日    

2015年4月17日金曜日

フェルマータ は延声記号?



 合唱経験の浅い高齢の筆者は、楽典の知識も中学生の頃のまま。覚えるより忘れる方がはるかに早く、音楽記号・標語はそのたびに調べ直しを繰り返す。
それでもフェルマータ 記号くらいは知っていたつもりであった。

 ところが、バッハ『マタイ受難曲』の中のコラールO,Haupt voll Blut und Wunden (おお、こうべは血にまみれ)を事前練習をしていて、フェルマータ記号で伸ばすと、どうも奇妙に感じられた。コンマで区切られているところは伸ばしても、そんなものかなと違和感はそれほどないのだが、コンマで区切られていないところで伸ばすのは、言葉のつながりから考えても釈然としない。

 指導者の先生による練習時、フェルマータのところでは、指揮を止めずそのままのテンポでお振りなる。当然、フェルマータは伸ばすものと考えていたのは筆者だけではなく、乱れたまま歌い通した。一通り歌い終えた後、指導の先生はバロックの時代ではフェルマータは区切りを表すのに用いられた、と説明して下さったので疑問は氷解。
 
 あらためて手元の『クラシック音楽事典』(平凡社刊)を調べてみると、「音符または休符の長さを引き延ばすこと」としか書いていない。小学館の『伊和中辞典』でfermata の項目をひくと、音楽記号としての意味はやはり、延声記号としか出ていない。ついでながら、イタリア語では通常、この記号はcorona というとのこと。
 他の音楽事典にあたってみようとしたものの、音楽好きの孫が持って行ってしまったので、手元には日本合唱指揮者協会編の『合唱ハンドブック』(カワイ出版)くらいしかない。あまり期待せずに調べてみると、なんとちゃんと載っているではないか。先の音楽事典とは打って変わって、小粒な事典なのに、フェルマータについては次のように説明している。

 (1)臨時に拍の進行を停止させ、音や休符を延長する記号。
 (2)終止記号として楽曲の終わりを示し、複縦線上などにおかれる。
 (3)コラールで歌詞の段落を示すもの。
 
 この度は(3)の説明がそのまま当てはまる。
 
 念のため、Wikipediaの日本語版で「フェルマータ」の項にあたってみると、こちらではこの記号の歴史を含め、かなり詳細な記述がなされている。バロック以前のフェルマータ記号については、近年の研究による、とあり、まだ論議の余地がありそうだ。少なくとも中学生の理解が自明のものではないことがわかる。

 たかがフェルマータという無かれ、一度立ち止まってこの記号についてとくと調べてみる必要がありそうだ。
 そういえば、イタリア語のフェルマータとは英語の stop 、「立ち止まること」の意味。イタリアの街を歩くとよくfermataの語に出会う。何のことはない、バス停の意味。
                                              2015年4月17日

2014年11月18日火曜日

薪割り または 鍛冶屋の合唱


薪ストーブのぬくもりがほしい季節になってきた。
昨シーズンと言っても煙突設置工事が遅れ、シーズンの終わり近く、今年の3月上旬になって、やっと待望の火入れとなった次第は先のブログで書いたとおり。(「老後の火遊び」2014年3月22日)

この間、2年分の薪ストックのため、薪置き場を作ったり、いただいた玉切りした丸太を割ったり、来シーズン用の薪を購入したりと、リモコンで暖をとれる生活から一変した。
このブログを書き始めるまえにも、2,3日分の薪を小割りする一仕事を終えたところ。寒さが増すにつれ、ちょっとした時間を割いて、薪や焚きつけの用意をする日々となってきた。

薪ストーブ生活には思わぬ副産物がある。薪を割ったり、運んだりすることで自然と腕の筋力も増し、腹筋をはじめ、下半身も鍛えられる。合唱生活を送られる方ならご承知の通り、発声にとって、下半身の支えがいかに大切かは言うに及ばない。こころなしか、以前より安定して発声が出来るようになった。

合唱仲間であり、かつ”薪友”でもあるK氏は外国製の高価な薪割り機を持つが、70も超えると、ものを増やすことを躊躇するので、面倒でも斧と楔で薪を割る。楔とハンマーによる薪割りは、比較的安全で、予想以上の威力であった。なにぶん金をかけずに済む。スポーツジムに通うのが苦手な筆者には手頃な運動にもなる。

ハンマーで楔をたたきながら、今練習中の「鍛冶屋の合唱」(Anvil Chorus)を口ずさむ。イタリア語ではCoro di zingari、”ジプシーの合唱”。
このオペラのことを知らなくとも、この合唱曲は聞き覚えのある方も多いだろう。
この曲はヴェルディの歌劇『イル・トロヴァトーレ』の第2幕第1場で歌われるが、スペインのロマ(ジプシー)たちが、「仕事だ!仕事だ!ハンマーをよこせ」に続けて、威勢良くハンマーを振り下ろしながら「誰がジプシーの暮らしに喜びをくれる?それはジプシー女さ!」と歌う。

この場面、母性愛と復讐心の相反する情念に突き動かされるジプシー女アズチェーナが合唱を引き取り、カンツォーネ「炎が激しく音を立てる!」を歌う。その中で、自分の母親が冤罪で火刑に処せられ、その復讐をはたすために、侯爵の息子をその残り火に投げ込もうともくろむが、誤って自分自身の赤子を投げ込んでしまった、と“息子”マンリーコに打ち明ける。この恐ろしい復讐はオペラの大団円で果たされることになる。

さて、本番の演奏では金床とハンマーを使うのだろうか。客には大いにうけると思うのだが。
                                                                                  2014/11/18







2014年11月10日月曜日

アーメン;ハレルヤ;アヴェ


練習の折、某氏から「アーメン」はユダヤ教でも言うのでしょうか、問われた。ユダヤ教どころか、キリスト教についても知識は薄く、もとより答える立場ではないのは先刻承知の上で、先方もそれほど期待を持って問おうとしているわけでもなさそうなので、さあどうでしょう、言わないのじゃないですか、と軽い気持ちで答えてしまった。練習後帰りの車の中で、この問いを反芻していると、アーメンがヘブライ語起源であることを思い出し、しまった!なんとも迂闊な返事をしたものだと、大いに反省。
家に帰り、あらためてOxfordのJewish Religion DictionaryのAmenの項 にあたってみると、旧約聖書には14度出てくるとある。さらに、かなり前に、必要が有って旧約聖書を部分的に少し勉強した時のノートを開いてみると、アーメンについてのメモも見つかった。年のせいか、すっかり忘れっぽくなっている自分をここでも見いだした次第。

ヘブライ語由来のこの語の語根は「まことに、確かに」という意味。
祭儀において唱和された模様が旧約聖書ネヘミア記8:6にある。
「・・・そこで学者エズラは、民全員の注目を浴びながら書物をひもといた。彼は民全員より一段高いところにいた。彼はこれをひもとくと、民全員が起立した。エズラが大いなる神ヤハウェを誉め讃える、民全員は手を高く上げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひれ伏して顔を地面につけ、ヤハウェを拝した。・・・レビ人たちが民に律法を説明した。民はその場にいた。かれらは神の律法の書をはっきりと朗読し、解説を加え、朗読箇所の意味を理解させた」

また申命記27:9-26には
「モーセはレビ人たる祭司たちと共に、全イスラエルに告げて言った。『イスラエルよ。静かにして聞け。今日あなたはあなたの神ヤハウェの民となった。・・・あなたはあなたの神ヤハウェの声に聞き従い、今日私があなたに命じるヤハウェの戒めと掟を行わなければならない。・・・すべての民は答えて『アーメン』と言わなければならない。・・・」とある。
こうしてみると、アーメンと唱えることは祭儀・礼拝に参加するものたちが祭司や聖職者が伝える神の言葉・意志への誓約・確認・同意をあらわす意義を持つと考えられる。
先のユダヤ教辞典も”So be it"(そうあるべし)という英語を当てていて、シナゴーグ(ユダヤ教の集会所・教会)での礼拝でも祝祷への応答として、局面局面で差し挟まれて唱えられる、と説明している。

念のため、手元のイスラーム辞典(岩波書店刊)を調べてみると、やはりこの項目がある。イスラム教においても、“しかり、かくあるべし”の意味で、同意の応答を示す表現として礼拝時に唱えられる。この言葉は主にクルアーン(コーラン)第1章クアーティッハ(開扉)章をイマーム(宗教指導者、礼拝の導者)が読誦した後に、全員が同時にアーミーンと唱え、内容への同意を表明する。

旧約聖書について、一言。
この聖書は言うまでもなくキリスト教の聖典であるが、その大部分はユダヤ教の聖典でもある。『旧約』(「古い契約」)という言い方はキリスト教から見た時の表現で、ユダヤ教では単に聖書と呼んだり、タナハなどと呼ぶ。研究者などは中立的なヘブライ語聖書などと言う。

合唱をやっていると宗教曲を歌う機会も多いが、”アーメン”の他にもヘンデルの有名な『メサイア』のハレルヤ・コーラスで連呼される”ハレルヤ”も、案外語の由来を知らぬまま歌う人も多いのではないか。ちなみに、この語もヘブライ語由来で、「ヤハ(=ヤハウェ神のこと)を誉め讃えよ」の意味。神礼拝の場で讃美の頌栄句として使われる。数々の名曲が作られてきた『詩編』の始まりや終わり、またはその双方に付加されている。

アヴェ・ヴェルム・コルプスやアヴェ・マリアのアヴェAveはラテン語で、単独では「やあ、ようこそ」くらいの意味。通常「めでたし」「おめでとう」などと訳されている。後者は『ルカ伝』1:26、いわゆる受胎告知において、天使ガブリエルがマリヤに呼びかける言葉である。「御使いのガブリエルが・・・家に入ると乙女マリアに対して言った。『こんにちは、恵まれた人、主があなたと共に』」

ヨーロッパ中世音楽、キリスト教音楽を専門とされる金澤正剛によれば、「アヴェ」は呼びかけの挨拶だが、「こんにちは」では訳し足りず、呼びかけの中に“祝福”の気持ちも込められている、という。(金澤正剛『キリスト教と音楽』P.178) 
なお、プロテスタントではカトリックにおけるようなマリア信仰はないので、プロテスタントの礼拝では『アヴェ・マリア』は歌うことはないそうである。

声楽曲は楽音に言葉が伴うだけに、日本語の声楽曲に限らず、外国語であっても、常に意味を意識して歌いたいものだ。

2014年7月3日木曜日

立憲主義の終焉


平成26年7月3日は憲政史上、立憲主義をないがしろにする重要な決定がなされた日として記憶されるだろう。

憲法を遵守する義務を負う行政のトップが、憲法の文言の中から自己に都合のいい部分だけを取り出し、「解釈の変更」と強弁して、この憲法の平和主義を足蹴りにした。平和な日本の70年に及ぶ戦後の歩みを侮蔑するかのように、「戦争放棄」の看板を投げ捨てた。

憲法は、日本のあり方を国民だけでなく、国際社会にも示すものだ。憲法が明示的に示す日本の形と、実際の日本の行動との齟齬を世界はどのように理解すればいいのか、戸惑うだろう。言葉の持つ重み、論理を重視する欧米の人々の眼には、ますます日本は理解しにくい国だと映るだろう。

この度の「集団的自衛権行使容認」は、前ブログにも書いたとおり、台頭する中国の軍事的脅威に対処するため、明らかに日米軍事同盟をより一層強固なものにすることを目指したものだ。
弱体化しつつある「世界の警察官」アメリカを支えるため、「集団的自衛権行使」だけでは足りなく、「集団的安全保障」を根拠に派兵できるようにしたいことが透けて見える。まさに「紛争の解決の手段」(憲法条文)として、軍事力を行使する、と言うわけである。
しかし、ベトナム戦争以来、軍事力で紛争の解決を図ろうとし、「テロとの戦い」で泥沼に陥っているアメリカの姿は、反面教師として十分だろう。

そのアメリカだが、いみじくも当時のブッシュ(ジュニア)大統領が言ったように、敵・味方を峻別して、問答無用、アメリカ側につくように求める。これまで、日本は「日本国憲法」を盾にアメリカへの加担は限定的であった。今後は、アメリカの要求に強く「ノー!」と言えるのか、はなはだ疑わしい。

それほど親米的とは見えない安倍首相は、自衛隊を海外に派兵することが出来るようにすることで、アメリカと対等な関係を築ける、とおそらく考えているのだろう。これは外務当局にとっても、日米軍事同盟の強化と並んで、外交交渉上悲願として歴代受け継がれてきた事だとみてよい。

「集団的自衛権行使容認」、「集団的安全保障」への参加は戦後の日本のあり方を大きく変えることだ。これにより、アメリカの戦争に加担することを強いられ、中東や発展途上国に見られるアメリへの憎悪が、今後、日本にも向けられることを覚悟しなければならない。

前ブログにも書いたとおり、日米軍事同盟の強化は戦争抑止として働くより、一層の軍拡競争を招き、東アジアの緊張を高める。それによって失う経済的損失の大きさは計り知れない。
この度の閣議決定が、中国はもとより、同盟国であるはずの韓国からも警戒の眼で見られていることにもっと目を向けるべきである。

今後は、舞台を国会の場に移して論議されるだろうが、国会の情勢を見ると、民意から大きく離れて、「行使容認」派が大多数を占めているので、国の形の大きな変更はもはや決定的なのかもしれない。本来、国会解散して民意を問うべきものなのだが。

                                                                  2014-7-3 記

2014年6月17日火曜日

集団的自衛権行使容認反対!


退職後、合唱を楽しむことを覚え、お陰で引きこもり老人にならずに済んでいる。とはいえ、日本の将来を考えると、歌い惚けてばかりいるわけにも行かない。
言うまでもなく、安倍政権が進める「安全保障政策」が、日本の将来を安泰にするどころか、危険にさらしかねない事を危惧するからである。

安倍政権は、「秘密保護法」、「日本版NSC(国家安全保障会議)の創設」につづいて、「集団的自衛権行使」容認のための憲法解釈の変更を、一内閣の閣議決定で決めようとしている。まことに乱暴なやり方だ。周辺国から見れば、日本は戦争する体制作りに邁進していると映るだろう。

「集団的自衛権」とはわかりにくい概念だ。自国が攻撃されていないのに「自衛権」とは奇妙な言い方だが、同盟国と目される国が攻撃された場合に共同で防衛にあたる権利、ということだろう。
日本国憲法では「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とうたい、明確にこれの行使を否定している。これが日本の形だ。
安倍政権はこの日本の形を180度変えようとしている。「解釈変更」というのは全くのまやかしであり、実態は「憲法無視」だ。

ブッシュ(父)大統領のイラク戦争(湾岸戦争)時、日本はお金を出すだけで、「人的貢献」をしないとたたかれた。それゆえ、子ブッシュのイラク戦争時には、なんとか「復興支援」の名の下に自衛隊をサマワに派遣した。幸い人的被害がなかったのは記憶に新しい。
外交当局や自民党政権にとって、この時の経験から「集団的自衛権の行使容認」は日米関係上是が非でも実現しなければならない、と考えたのだろう。
緊張が高まりつつある東シナ海の状況を考えると、「日米安全保障条約」があるとはいえ、アメリカとの同盟関係をより強固なものにするためには、アメリカが関与する国際紛争に日本もアメリカに加担しなければならないと考えてのことだろう。日米安保は憲法の制約のため、相互防衛より日本庇護の性格のものだからだ。
端的に言って、この度の「集団的自衛権」問題はアメリカとの軍事同盟強化としてみるとわかりやすい。脅威を増す中国に対する抑止力としてアメリとの軍事同盟をより強固なものにしておきたい、との思惑だろう。

戦後70年になんなんとする今、日中関係は戦後最悪といえる。悪化した国同士の関係ではどちらかが一方的に悪い、と言うことはまずない。双方に関係を悪くする要因が存在し、それをまた外交カードとして利用しようとするからこじれるばかりだ。特に、内政において多大な困難を抱える中国の場合、ナショナリズムを刺激し、意図的に外国と緊張を高めることもあるだろう。また、巨大な利益集団でもある中国軍部は、政権内部の権力闘争と相まって、政権を揺さぶる意図を働かせるかもしれない。
尖閣諸島の領有権問題は、まさに共産党一党独裁の中国政府にとって、また中国軍部にとってまたとない外交カードと映ったかもしれない。加えて、日本の保守政治家は歴史認識問題や靖国参拝で外交カードを見返りなしで提供してくれる。
いったん悪くなった外交関係はスパイラル的に悪化しかねない。最悪は戦争に行きつくことだ。

領土問題はナショナリズムを刺激しやすく、下手をすると戦争を引き起こしかねない。海底資源も期待するほどのものでなく、人も住まぬ単なる岩礁に過ぎない尖閣諸島を巡って、戦争に至るとは双方にとって愚かな話だ。

為政者はよく「国民の生命と財産を守る」という。本気でそう考えるのならば戦争につながる芽を未然に摘むことだ。そして、日本は太平洋戦争で戦った国や東アジアの国とはいかなる場合であっても戦争を行ってはならない、と強く思いを定めるべきだ。もし戦争に至ったなら、またもや未曾有の戦争災害が双方の国民を襲うからだ。ベトナム戦争以降のアメリカの数々の戦争を見ても、勝者はなく、双方が深く傷つき、戦争終結がいかに難しいか、容易に見て取れる。

安倍政権はこの度の集団的自衛権行使容認は戦争抑止のため、と抗弁するだろう。しかし、中国のような大国には、緊張を高めこそすれ、抑止力としては働かない。最も効果的な戦争抑止は様々な面で両国関係を強めることだ。

冷戦期に較べ、経済の面でのつながり、人的交流が飛躍的に大きくなった日中関係が悪化することは双方の国民にとっても、周辺国にとっても百害あって一利もない。

繰り返し言おう。集団的自衛権行使容認は、アメリカとの軍事同盟強化のためとはいえ、周辺国との戦争抑止には働かない。むしろ緊張を高めるマイナス要因となる。さらに、アメリカの戦争に加担し、人の命を奪い、また奪われることにつながる。

甥の娘が最近大学を卒業し、海上自衛隊に入ったこともあり、この問題にますます無関心ではいられない。

憲法でうたい、戦後70年営々と築いてきた日本の形を変えるべきではない。このように考えることこそ、日本の保守の思想である。


2014年3月22日土曜日

老後の火遊び


”火遊び”と言っても、比喩ではなく、文字通り火を燃やし、揺らぐ炎を見ながら、心身ともに暖まる一時を過ごすのである。
かなり前から家人が薪ストーブを付けたがっていたが、北海道出の筆者にとって薪ストーブは郷愁を誘うロマンチックな趣に魅せられると同時に、その扱いの面倒さをよく知るので、冬が過ぎるのを待ちわびつつ、その声をやり過ごしてきた。しかし、退職後の時間的ゆとりが薪ストーブの面倒さに打ち勝てそうに思えたので、家人の希望を叶えることにした。

燃焼効率を考えると、煙突は直筒屋根出しがいいのだが、既設住宅に設置するので、工事が面倒だし、雨漏りも心配なので、壁出し。
めがね石工事は大工さんに頼んだが、煙突は自分で付けたところ、孫娘が、「おじいちゃん、煙突曲げっているよ」という。屋根に上り、および腰、へっぴり腰で付けたせいか。
それでも早速火入れ。ホームセンターで買った一束8㎏¥630也のクヌギが勢いよく燃え、気持ち共々温めてくれる。

家人は庭木の剪定や古木の始末にストーブを役立てよう、それどころか燃料はそれでまかなえるのではないか、そんな甘い見通しをもっていた節があるが、薪置き場から薪を家に取り込むことが子どもの頃の日課だった筆者は、寝ても覚めても薪の調達をどうするかで、しばらくは頭がいっぱい。
真冬の寒い日だと、2~3束20㎏以上燃やすことになる。年金生活者にとって、かなり痛い出費だ。

薪ストーブのある暮らしを喧伝する雑誌などでは、薪の調達について、ずいぶん楽観的なことが書いてある。やれ、工務店から廃材をもらう、造園業者と仲良くする、森林組合から間伐材をただ同然で入手する、あるいは原木を買い、自分で玉切り、中割りする、と言った具合である。
ちょっと考えれば解ることだが、建築に伴う廃材は薪としてはあまりむかない杉や檜、合板、集成材の切れ端などである。庭木にしても、薪にむくものがどれほどあるか。間伐材も杉や檜がほとんどであろう。
原木を購入する場合も同様だが、運搬手段、玉切り、薪割り全てを自分でまかなう覚悟がいる。そのためには、軽トラック、チェーンソー、薪割り機が必要になる。加えて、力仕事を伴うので、体力も必要だ。高齢者にはこれは生やさしことではない。
持続可能なストーブ生活を送るには、やはり出来合いの薪を出来るだけ安く手に入れるほか無いのだ。

上の孫が、煙突を眺めながら、「この円い筒はどこから来ているの?」とあきれたことを言う。屋根の上に突き出た煙突ではなく、部屋のストーブから伸びる煙突をさして言うのだ。
考えてみれば、生活の中で煙突はもう馴染みのものではなくなった。それどころか、火そのものが台所にでも立たない限り、身近でなくなりつつある。
人類が火を見いだし、発火を工夫し、生活に役立て、火を生活の中心に置いた。採暖、調理、採光、いずれもが火によって営まれてきた。
今は、暖房はエアコン、炎の見えない石油ストーブ、台所仕事も電磁調理器に至っては火が全く見えない。火を必要としながら、一方で、破壊的な性格を持つ火を出来るだけ遠ざけるようにしてきたのである。

小学唱歌「たき火」は「日本の歌百選」にも選ばれ、中高年の世代なら誰もが歌ったことがある歌だろうが、秋の風物詩を彩る落ち葉焚きも、近隣や消防署からそれこそ煙たがれる。「たき火」は今では遠い昔の世界に見える。

ストーブの火を見ていると、郷愁を覚えると同時に、わずかながら野生の感覚がよみがえる。年寄りの冷や水などと家人に揶揄されながら、チェーンソーで倒木を玉切りして、薪割りのまねごとを試してみた。翌日体の節々が痛んだことは言うまでもない。


2014年2月15日土曜日

「かれら」か、それとも「われら」か?    ー 「祈りの歌」続き


 先に、ブルッフの「祈りの歌」を話題にした。原題はMedia Vita - Die Schlachtgesang der Mönche 。今回はその日本語歌詞を取り上げる。

 所属する合唱団で、歌詞の理解を巡って疑問が出てきた。先に触れたように、日本語による「祈りの歌」は、原曲のドイツ語歌詞の訳詞ではなく、安田二郎(=福永陽一郎)によって作詞されたものである。

 疑問点は、ライヒェナウの修道士が歌う歌詞の中の「かれら」が、誰を指示しているのか、を巡ってである。その前段のザンクト・ガレンの修道士の歌では「われらと」一人称で歌う。それを引き継ぐライヒェナウの修道士の歌では唐突にも「かれら」と三人称の指示語に変わっている。歌詞の連続性を考えれば「かれら」は先のザンクト・ガレンの修道士を指示していると受け止めるほかない。しかし後段ではザンクト・ガレン、ライヒェナウ両修道士たちは声をそろえて「われら」と歌うのである。
 ところが、ライヒェナウの修道士が歌う部分の「かれら」を「われら」にすればすっきりとつながるし、全体の構成ともマッチする。わずか一字の違いである。
 誤植で「わ」が「か」になったことも考えられるので、念のため、合唱仲間から送られた録音、福永陽一郎指揮による早稲田グリーと慶応ワグネルの合同演奏を何度も聞いてみたが、その部分は「かれら」と歌っている。

 ところで、先のブログでは、原曲の楽譜がないので、シェッフェルの原詩の訳文を掲げておいたが、その後ネット上のサンプル楽譜(全体の60%)をもとに、欠けている歌詞を原詩で補って,原曲の楽譜を復元してみた。多分90%以上の確立で復元できたと思う。原曲楽譜が入手できればこんな手間をかけずに済むのだが、暇に任せてやってみた。やってみて、原詩はそのままはまることが解った。先に報告した原曲楽譜のRichter(裁き手)→  Rächer(報復者)を除いてはシェッフェルの原詩通りになる。
 
 余談だが、この変更は作曲上の理由からと思われる、と先に書いたが、もしかすると、作曲者のブルッフが手にした版ではRächerとなっていて、後に小説の著者シェッフェルが改訂版を出すときに、Richter に変えたのかもしない。意味的にはRichterの方がすっきりする。ベートーヴェンの「第九」合唱でも、男声合唱の部分で、Laufet …とあるが、現在われわれが入手するシラーの詩では、Wandert…となっている。これはシラー自身が後に変えたことに依る異同である。

 本題に戻るが、作詞とはいえ、原曲の歌詞をもとにしているはずなので、原曲にあたってみると、原曲歌詞では全体が一人称「われら」で統一されている。件のライヒェナウの修道士が歌う箇所の三人称「かれら」は「われらの父祖たち」を指している。一人称「われら」で歌っているのである。(参照:前ブログの原詩訳文)

 「グリークラブアルバム1」(カワイ出版)所収のこの楽譜でも、冒頭バスパートにザンクトガレン修道士、テノールパートにライヒェナウ修道士の注意書きを添えている。この事から作詞者安田二郎(=福永)はこの曲の構成を原曲に沿って歌うよう求めていると考えられる。
 英語表記していることから、氏がもとにした楽譜は英語版と推測される。すると歌詞は英語に依ったと考えられる。原曲、テノールパートの「かれら」は「われらの父祖たち」を指していて、これは取り違えることがないはずだが、もしかするともとになった英語の訳詞に問題があったのかもしれない。

 作詞なので、原詩から離れて自由に作詞したのだ、と考えることはもちろん可能だが、では何故に楽譜に原曲に従って、それぞれ「ザンクト・ガレンの修道士」、「ライヒェナウの修道士」と、この曲の構成上重要な但し書きを書き入れたのか説明が付かない。作詞の構成も原曲に沿って作られていることは明らかだ。それなら、たとえ作詞であっても、全体の構成を左右するわずか一字の違いも見過ごすわけにはいかない。

2014年2月10日月曜日

男声合唱曲「祈りの歌」


 所属する合唱団で、ブルッフ(Max Bruch 1838-1920)の「祈りの歌」の練習に入った。「グリークラブアルバム1」(カワイ出版)所収の男声合唱曲である。

 ブルッフはドイツのケルン生まれ。ヴァイオリン協奏曲で名前が知られているが、合唱曲も多数作曲している。
「グリークラブアルバム1」では、題名がMedia Vita 「祈りの歌」とあるが、原題は Media Vita   Schlachtgesang der Mönche (戦いに臨む修道士たちの歌)となっている。
ラテン語 ”Media Vita” は人生の半ば、くらいの意味であろうが、自信はない。全く違っているかもしれない。

 さて、作詞者は安田二郎とある。この名はグリークラブアルバムの編者のひとり、著名な合唱指導者 福永陽一郎のペンネームで、「オーラ・リー」などの訳詞も手がけていて、作詞者、訳詞者としてはこのペンネームを使うようだ。

 ところで、原曲の歌詞だが、ネットにある原曲楽譜のサンプルを見ると、ヨーゼフ・ヴィクトァ・フォン・シェッフェル Joseph Victor von Scheffel(1826-1886)の名があげられている。シェッフェルは以前は結構読まれた作家だが、今は二三の作品を除いてはあまり読まれないと思われる。1855年に発表された小説『エッケハルト』Ekkehard10世紀スイスのザンクトガレンの修道士の名)に出てくる詩をもとにブルッフは作曲したのだろう。

 ネットで探したところ、原詩が見つかったので、参考までにその試訳を掲げる。
 
 (フン族との戦いに、隊列を組んで歩を進める男たちの鈍い声が響く:) 
   ああ、わが人生も半ばを過ぎたにすぎない!
   死に神の使いがわれわれに絶えずつきまとう。
   後ろ盾として頼みにできるのは、あなたをおいて誰がおろうか。
   おお主よ!犯した罪の裁き手よ!
   聖なる神よ!
 
 (するとライヒェナウの修道士たちが別の側からそれに応えて歌う:) 
   わが父祖たちはかねてよりあなたを待ち焦がれてきた、
   あなたはかれらの涙をぬぐってくれた。
   あなたのもとに彼らの叫びと呼び声が届いた、
   あなたは父祖たちを玉座から振り捨てることをしなかった。
   強大な神よ!
 
 (左右の声が一緒に鳴り響く:)
   無力感がわれわれを襲うとき、見捨てないでください!
   勇気が萎えるとき、われわれ皆の支え杖となってください;
   死に神の餌食にわれわれを委ねることの無いように、
   慈悲深い神よ、われわれの盾であり、頼りである神よ!
   聖なる神、強大な神よ!
   聖なる慈悲深い神よ、われらをあわれみ給え!
   
 原曲の楽譜が手元にないので、歌詞が同じ詩文であるかどうか確かではない。作曲上の理由からだろうか、少なくとも一部改変がみられる。「犯した罪の裁き手よ(Richter)!」が「報復者(Rächer)」に変えられている。

 作詞者安田二郎(福永陽一郎)の歌詞は内容的には原詩と同じではないが、当たらずとも遠からずと言ったところだろうか。

 「グリークラブアルバム1」(カワイ出版)所収の楽譜には英語表記があるので、英米で出版された楽譜をもとにしたのかもしれない。
バス部の冒頭に「ザンクトガレンの修道士たち」、テノール部のはじめに「ライヒェナウの修道士たち」の但し書きがある。これは上に掲げた詩文に対応している。
なお、この楽譜では、Reichenan とあるが、Reichenau の間違い。

 この詩の舞台である十世紀にはすでに、ザンクトガレン修道院とライヒェナウ修道院があった。スイスとドイツにまたがるボーデン湖近くにあるこの二つの修道院は、今日ともに世界文化遺産となっている。

 合唱団の仲間が慶應義塾大ワグネルと早稲田大グリーの合同演奏の録音を探してくださった。ネット上にはアメリカの公演記録(複数)もあるので、この曲は過去には良く歌われたものと思われるが、YouTube では見つからなかった。

 今は男声合唱団ならでは、といった曲は好まれないのかもしれない。

                               

2013年12月7日土曜日

特定秘密保護法成立


予想通り、「特定秘密保護法」が成立した。

与党自民党の中のリベラル派に一縷の期待を持っていたが、安倍政権の暴走に対する抑止力として働くには、その勢力はあまりに弱すぎたと言うことか。
と言うより、明らかに自民党が大きく変質したと言うべきだろう。
それは、国民全体がいわゆる右傾化していることと無縁ではあるまい。ここで言う右傾化とは、簡単に言えば、一人一人の人権よりも“国家”を優先させる指向ベクトルである。
その結果、国会において、もはや、従来の“保守”,“革新”では割り切れない、“国家主義的”政治勢力が与野党を問わず力を増している。しかも戦争の記憶が薄い年齢層ほどこの傾向が強いことに、筆者は大きな不安を覚えるのである。

この法案を支持する人たちは、北朝鮮や覇権傾向を強める中国の存在を意識してのことだろう。北朝鮮の暴発は怖い、尖閣諸島の領有権を巡って,中国との間に不測の事態も起きかねない、そう国民の多くが不安を抱いているのも確かである。
この空気を安倍政権は千載一遇の機会と捉え、強引に成立を図った。

安倍政権が進める国家主義的諸政策はこの法案に留まらない。道徳教育の教科化やNHK人事に見られるメディア支配の強化、普天間基地の移設問題、エネルギー基本計画策定にもこの政治姿勢が垣間見られる。
国家安全保障会議(日本版NSC)の新設、特定秘密保護法、さらには集団的自衛権の確立、と見てくれば、この政権は「戦争を出来る体制作り」を目指しているとしか思えない。これは現行憲法の平和主義を否定する国作りだ。
いわゆる「決められる政治」とは、国民の意向を忖度せず、国家権力を剥き出しにすることのように見える。エネルギー政策、労働政策一つ見ても、この政権が国民の利益よりも何を優先しているかは明白であろう。筆者には現今の中国と次第に相似形をなしていくように見えるのである。

このような安倍政権を誕生させたのは、国政選挙の結果である。
一票の格差問題ばかりに焦点が合わされるが、民意を反映しにくい現行の小選挙区制ではなく、以前の中選挙区制なら、今回の事態は招かなかったであろう。さらに、ドイツなどの比例代表制に重きを置いた選挙制度なら、このような法案が上程されることもなかったであろう。明らかに選挙制度の欠陥がもたらしたものとして、今回の事態を記憶されるべきだ。

しかし、次回以降の国政選挙次第では、この法律を廃止乃至は大幅な改正も可能である点に希望をつなぐことが出来る。
国民の多くがその時まで、この政権が推し進める危険な政策をよくよく理解し、想いを持続していられるかどうかにかかっているが。