2015年4月22日水曜日

平和を祈念して『夕焼け』を歌う


 所属する合唱団で、今夏のステージで歌う曲の一つに高田敏子作詞、信長貴富作曲の『夕焼け』(カワイ出版)を歌うことになった。合唱指導指揮の先生が、戦後70年の平和な歩みを蔑ろにするような空気への危機感から選んだ、という趣旨の発言をされた。この趣旨に完全に同意したいと思う。
 この曲はもともと女性合唱曲として作曲されたが、合唱団京都エコーの委嘱で混声合唱曲に編曲されたと奥付にある。わが合唱団も混声で歌う。
 信長氏自身のコメントにあるように、この曲は平和への祈念を合唱を通して共有しようという歌で、声高に反戦を訴えるものではないが、一つの反戦歌と理解して良いだろう。

 合唱経験の浅い筆者には反戦合唱曲、プロテストソングの合唱曲といってもあまり思い浮かばない。すぐに思いつくのは、金井直作詞、岩河三郎作曲の『木琴』くらいだ。この曲は一頃はNHKの合唱コンクールの自由曲に選ばれることも多く、また若い世代では校内合唱コンクールで歌った方も多いことはYouTubeでも伺える。
 中学校に勤務した経験を持つ連れ合いに聞いたところ、校内合唱コンクールでこの曲を涙を流しながら懸命に歌った生徒たちの姿を今も思い出すという。
 この詩は中学国語の教科書にも載っていたし、道徳の教材にもなっていたともいう。今の安倍政権のもとではこのような詩ですら学校教育から排除されかねない。

 話は一転するが、安倍政権による「集団的自衛権」についての強引な憲法解釈の変更以後の「安全保障」法制が、国民不在のまま、と言うより、矢継ぎ早に繰り出される諸法制で国民を目くらましにしているとしか見えないやり方で進んでいる。
 前にもこのブログで書いたが、「特定秘密保護法」にしろ「集団的自衛権行使容認」にしろ、アメリカのブッシュ(父)大統領時代の湾岸戦争での苦い経験が背景にある。多額の戦費をアメリカに供与したにもかかわらず、人的貢献の求めに応じなかったことでアメリカの不興を買った。特に外務官僚にそれがトラウマとなったのだろう。人的貢献とは端的に言えば自衛隊員の命を差し出すことになりかねない事だ。
 すでに書いたのでここで繰り返さないが、東アジアの情勢を鑑みて、日米の軍事同盟をより確かなものにしたい、と言うのが外務官僚の安全保障政策なのだろう。自衛隊の海外派遣目的の一つに邦人救助がとってつけたように付け加えられたが、自衛隊の元幹部からもこれに強い疑問が投げかけられる始末だ。
 戦争中の他国軍を「後方支援」するための「国際平和支援法」なるものも、想定する事態が机上の空論にもとづく。外務官僚や政権幹部、政権与党の諸氏の貧しい想像力を少し補うことができるスペイン映画を紹介したい。

 2012年制作の映画『インベーダー・ミッション』はブッシュ(子)大統領のイラク戦争下、主人公の軍医は友人の軍医とともにスペイン政府によるアメリカ軍後方支援としてイラクに派遣される。
 負傷したイラク女性をアメリカ軍護衛で病院へ搬送の途中、地雷攻撃に合い、さらにゲリラの襲撃から民家に逃げ込む。その際恐怖と混乱から二人はその民家の親子を殺害してしまう。
 この一連の出来事は恐怖と怪我のせいで、主人公は記憶を失ったまま帰国する。怪我から回復するにつれ、その時の出来事が断片的に思い出すようになる。
 そんな折、政府当局からイラクで経験したことの秘密を守るよう署名を求められる。秘密を漏らせば国家反逆罪に問われ服役することになる、と脅される。秘密を守れば職務に復帰でき、怪我の保障も得られると説得される。
 断片的だった記憶をつなぎ合わすため、一緒に行動していた友人と連絡を取ろうとするが、なぜかその友人はそれに応えようとしない。実は瀕死の重傷を負った主人公を救ったその友人は、戦争犯罪となり得るある出来事の一部始終を密かに携帯に録画していたのだ。
 その出来事とは、二人が民家に逃げ込んだ後、ゲリラ攻撃の報復として、二人の軍医の護衛にあたっていたアメリカ兵が集落の住民全員を銃殺、殺さないでとつぶやく幼い女の子まで射殺した事件だった。
 二人は当局によって監視され、映像の存在を当局の知るところとなり、追跡を受ける中、友人は殺され、友人の携帯を手にした主人公は逃げ延びる。当局に捕まる直前に携帯映像を放送メディアに送った主人公は刑務所に収監されるところで幕を閉じる。

 あえてこの映画の詳細を記したのは、この映画が集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法などの安全保障政策と重なる事態が描かれているからだ。今進められている『安全保障』法制が成立すれば近未来に起きうる事態がリアルに見られるのだ。
 
 この映画はWOWOWが3月に放映したものを筆者は観たのだが、時期的にタイムリーな放映であった。WOWOW番組編成者の心意気が感じられる。
                                 2015年4月22日    

2015年4月17日金曜日

フェルマータ は延声記号?



 合唱経験の浅い高齢の筆者は、楽典の知識も中学生の頃のまま。覚えるより忘れる方がはるかに早く、音楽記号・標語はそのたびに調べ直しを繰り返す。
それでもフェルマータ 記号くらいは知っていたつもりであった。

 ところが、バッハ『マタイ受難曲』の中のコラールO,Haupt voll Blut und Wunden (おお、こうべは血にまみれ)を事前練習をしていて、フェルマータ記号で伸ばすと、どうも奇妙に感じられた。コンマで区切られているところは伸ばしても、そんなものかなと違和感はそれほどないのだが、コンマで区切られていないところで伸ばすのは、言葉のつながりから考えても釈然としない。

 指導者の先生による練習時、フェルマータのところでは、指揮を止めずそのままのテンポでお振りなる。当然、フェルマータは伸ばすものと考えていたのは筆者だけではなく、乱れたまま歌い通した。一通り歌い終えた後、指導の先生はバロックの時代ではフェルマータは区切りを表すのに用いられた、と説明して下さったので疑問は氷解。
 
 あらためて手元の『クラシック音楽事典』(平凡社刊)を調べてみると、「音符または休符の長さを引き延ばすこと」としか書いていない。小学館の『伊和中辞典』でfermata の項目をひくと、音楽記号としての意味はやはり、延声記号としか出ていない。ついでながら、イタリア語では通常、この記号はcorona というとのこと。
 他の音楽事典にあたってみようとしたものの、音楽好きの孫が持って行ってしまったので、手元には日本合唱指揮者協会編の『合唱ハンドブック』(カワイ出版)くらいしかない。あまり期待せずに調べてみると、なんとちゃんと載っているではないか。先の音楽事典とは打って変わって、小粒な事典なのに、フェルマータについては次のように説明している。

 (1)臨時に拍の進行を停止させ、音や休符を延長する記号。
 (2)終止記号として楽曲の終わりを示し、複縦線上などにおかれる。
 (3)コラールで歌詞の段落を示すもの。
 
 この度は(3)の説明がそのまま当てはまる。
 
 念のため、Wikipediaの日本語版で「フェルマータ」の項にあたってみると、こちらではこの記号の歴史を含め、かなり詳細な記述がなされている。バロック以前のフェルマータ記号については、近年の研究による、とあり、まだ論議の余地がありそうだ。少なくとも中学生の理解が自明のものではないことがわかる。

 たかがフェルマータという無かれ、一度立ち止まってこの記号についてとくと調べてみる必要がありそうだ。
 そういえば、イタリア語のフェルマータとは英語の stop 、「立ち止まること」の意味。イタリアの街を歩くとよくfermataの語に出会う。何のことはない、バス停の意味。
                                              2015年4月17日

2014年11月18日火曜日

薪割り または 鍛冶屋の合唱


薪ストーブのぬくもりがほしい季節になってきた。
昨シーズンと言っても煙突設置工事が遅れ、シーズンの終わり近く、今年の3月上旬になって、やっと待望の火入れとなった次第は先のブログで書いたとおり。(「老後の火遊び」2014年3月22日)

この間、2年分の薪ストックのため、薪置き場を作ったり、いただいた玉切りした丸太を割ったり、来シーズン用の薪を購入したりと、リモコンで暖をとれる生活から一変した。
このブログを書き始めるまえにも、2,3日分の薪を小割りする一仕事を終えたところ。寒さが増すにつれ、ちょっとした時間を割いて、薪や焚きつけの用意をする日々となってきた。

薪ストーブ生活には思わぬ副産物がある。薪を割ったり、運んだりすることで自然と腕の筋力も増し、腹筋をはじめ、下半身も鍛えられる。合唱生活を送られる方ならご承知の通り、発声にとって、下半身の支えがいかに大切かは言うに及ばない。こころなしか、以前より安定して発声が出来るようになった。

合唱仲間であり、かつ”薪友”でもあるK氏は外国製の高価な薪割り機を持つが、70も超えると、ものを増やすことを躊躇するので、面倒でも斧と楔で薪を割る。楔とハンマーによる薪割りは、比較的安全で、予想以上の威力であった。なにぶん金をかけずに済む。スポーツジムに通うのが苦手な筆者には手頃な運動にもなる。

ハンマーで楔をたたきながら、今練習中の「鍛冶屋の合唱」(Anvil Chorus)を口ずさむ。イタリア語ではCoro di zingari、”ジプシーの合唱”。
このオペラのことを知らなくとも、この合唱曲は聞き覚えのある方も多いだろう。
この曲はヴェルディの歌劇『イル・トロヴァトーレ』の第2幕第1場で歌われるが、スペインのロマ(ジプシー)たちが、「仕事だ!仕事だ!ハンマーをよこせ」に続けて、威勢良くハンマーを振り下ろしながら「誰がジプシーの暮らしに喜びをくれる?それはジプシー女さ!」と歌う。

この場面、母性愛と復讐心の相反する情念に突き動かされるジプシー女アズチェーナが合唱を引き取り、カンツォーネ「炎が激しく音を立てる!」を歌う。その中で、自分の母親が冤罪で火刑に処せられ、その復讐をはたすために、侯爵の息子をその残り火に投げ込もうともくろむが、誤って自分自身の赤子を投げ込んでしまった、と“息子”マンリーコに打ち明ける。この恐ろしい復讐はオペラの大団円で果たされることになる。

さて、本番の演奏では金床とハンマーを使うのだろうか。客には大いにうけると思うのだが。
                                                                                  2014/11/18







2014年11月10日月曜日

アーメン;ハレルヤ;アヴェ


練習の折、某氏から「アーメン」はユダヤ教でも言うのでしょうか、問われた。ユダヤ教どころか、キリスト教についても知識は薄く、もとより答える立場ではないのは先刻承知の上で、先方もそれほど期待を持って問おうとしているわけでもなさそうなので、さあどうでしょう、言わないのじゃないですか、と軽い気持ちで答えてしまった。練習後帰りの車の中で、この問いを反芻していると、アーメンがヘブライ語起源であることを思い出し、しまった!なんとも迂闊な返事をしたものだと、大いに反省。
家に帰り、あらためてOxfordのJewish Religion DictionaryのAmenの項 にあたってみると、旧約聖書には14度出てくるとある。さらに、かなり前に、必要が有って旧約聖書を部分的に少し勉強した時のノートを開いてみると、アーメンについてのメモも見つかった。年のせいか、すっかり忘れっぽくなっている自分をここでも見いだした次第。

ヘブライ語由来のこの語の語根は「まことに、確かに」という意味。
祭儀において唱和された模様が旧約聖書ネヘミア記8:6にある。
「・・・そこで学者エズラは、民全員の注目を浴びながら書物をひもといた。彼は民全員より一段高いところにいた。彼はこれをひもとくと、民全員が起立した。エズラが大いなる神ヤハウェを誉め讃える、民全員は手を高く上げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひれ伏して顔を地面につけ、ヤハウェを拝した。・・・レビ人たちが民に律法を説明した。民はその場にいた。かれらは神の律法の書をはっきりと朗読し、解説を加え、朗読箇所の意味を理解させた」

また申命記27:9-26には
「モーセはレビ人たる祭司たちと共に、全イスラエルに告げて言った。『イスラエルよ。静かにして聞け。今日あなたはあなたの神ヤハウェの民となった。・・・あなたはあなたの神ヤハウェの声に聞き従い、今日私があなたに命じるヤハウェの戒めと掟を行わなければならない。・・・すべての民は答えて『アーメン』と言わなければならない。・・・」とある。
こうしてみると、アーメンと唱えることは祭儀・礼拝に参加するものたちが祭司や聖職者が伝える神の言葉・意志への誓約・確認・同意をあらわす意義を持つと考えられる。
先のユダヤ教辞典も”So be it"(そうあるべし)という英語を当てていて、シナゴーグ(ユダヤ教の集会所・教会)での礼拝でも祝祷への応答として、局面局面で差し挟まれて唱えられる、と説明している。

念のため、手元のイスラーム辞典(岩波書店刊)を調べてみると、やはりこの項目がある。イスラム教においても、“しかり、かくあるべし”の意味で、同意の応答を示す表現として礼拝時に唱えられる。この言葉は主にクルアーン(コーラン)第1章クアーティッハ(開扉)章をイマーム(宗教指導者、礼拝の導者)が読誦した後に、全員が同時にアーミーンと唱え、内容への同意を表明する。

旧約聖書について、一言。
この聖書は言うまでもなくキリスト教の聖典であるが、その大部分はユダヤ教の聖典でもある。『旧約』(「古い契約」)という言い方はキリスト教から見た時の表現で、ユダヤ教では単に聖書と呼んだり、タナハなどと呼ぶ。研究者などは中立的なヘブライ語聖書などと言う。

合唱をやっていると宗教曲を歌う機会も多いが、”アーメン”の他にもヘンデルの有名な『メサイア』のハレルヤ・コーラスで連呼される”ハレルヤ”も、案外語の由来を知らぬまま歌う人も多いのではないか。ちなみに、この語もヘブライ語由来で、「ヤハ(=ヤハウェ神のこと)を誉め讃えよ」の意味。神礼拝の場で讃美の頌栄句として使われる。数々の名曲が作られてきた『詩編』の始まりや終わり、またはその双方に付加されている。

アヴェ・ヴェルム・コルプスやアヴェ・マリアのアヴェAveはラテン語で、単独では「やあ、ようこそ」くらいの意味。通常「めでたし」「おめでとう」などと訳されている。後者は『ルカ伝』1:26、いわゆる受胎告知において、天使ガブリエルがマリヤに呼びかける言葉である。「御使いのガブリエルが・・・家に入ると乙女マリアに対して言った。『こんにちは、恵まれた人、主があなたと共に』」

ヨーロッパ中世音楽、キリスト教音楽を専門とされる金澤正剛によれば、「アヴェ」は呼びかけの挨拶だが、「こんにちは」では訳し足りず、呼びかけの中に“祝福”の気持ちも込められている、という。(金澤正剛『キリスト教と音楽』P.178) 
なお、プロテスタントではカトリックにおけるようなマリア信仰はないので、プロテスタントの礼拝では『アヴェ・マリア』は歌うことはないそうである。

声楽曲は楽音に言葉が伴うだけに、日本語の声楽曲に限らず、外国語であっても、常に意味を意識して歌いたいものだ。

2014年7月3日木曜日

立憲主義の終焉


平成26年7月3日は憲政史上、立憲主義をないがしろにする重要な決定がなされた日として記憶されるだろう。

憲法を遵守する義務を負う行政のトップが、憲法の文言の中から自己に都合のいい部分だけを取り出し、「解釈の変更」と強弁して、この憲法の平和主義を足蹴りにした。平和な日本の70年に及ぶ戦後の歩みを侮蔑するかのように、「戦争放棄」の看板を投げ捨てた。

憲法は、日本のあり方を国民だけでなく、国際社会にも示すものだ。憲法が明示的に示す日本の形と、実際の日本の行動との齟齬を世界はどのように理解すればいいのか、戸惑うだろう。言葉の持つ重み、論理を重視する欧米の人々の眼には、ますます日本は理解しにくい国だと映るだろう。

この度の「集団的自衛権行使容認」は、前ブログにも書いたとおり、台頭する中国の軍事的脅威に対処するため、明らかに日米軍事同盟をより一層強固なものにすることを目指したものだ。
弱体化しつつある「世界の警察官」アメリカを支えるため、「集団的自衛権行使」だけでは足りなく、「集団的安全保障」を根拠に派兵できるようにしたいことが透けて見える。まさに「紛争の解決の手段」(憲法条文)として、軍事力を行使する、と言うわけである。
しかし、ベトナム戦争以来、軍事力で紛争の解決を図ろうとし、「テロとの戦い」で泥沼に陥っているアメリカの姿は、反面教師として十分だろう。

そのアメリカだが、いみじくも当時のブッシュ(ジュニア)大統領が言ったように、敵・味方を峻別して、問答無用、アメリカ側につくように求める。これまで、日本は「日本国憲法」を盾にアメリカへの加担は限定的であった。今後は、アメリカの要求に強く「ノー!」と言えるのか、はなはだ疑わしい。

それほど親米的とは見えない安倍首相は、自衛隊を海外に派兵することが出来るようにすることで、アメリカと対等な関係を築ける、とおそらく考えているのだろう。これは外務当局にとっても、日米軍事同盟の強化と並んで、外交交渉上悲願として歴代受け継がれてきた事だとみてよい。

「集団的自衛権行使容認」、「集団的安全保障」への参加は戦後の日本のあり方を大きく変えることだ。これにより、アメリカの戦争に加担することを強いられ、中東や発展途上国に見られるアメリへの憎悪が、今後、日本にも向けられることを覚悟しなければならない。

前ブログにも書いたとおり、日米軍事同盟の強化は戦争抑止として働くより、一層の軍拡競争を招き、東アジアの緊張を高める。それによって失う経済的損失の大きさは計り知れない。
この度の閣議決定が、中国はもとより、同盟国であるはずの韓国からも警戒の眼で見られていることにもっと目を向けるべきである。

今後は、舞台を国会の場に移して論議されるだろうが、国会の情勢を見ると、民意から大きく離れて、「行使容認」派が大多数を占めているので、国の形の大きな変更はもはや決定的なのかもしれない。本来、国会解散して民意を問うべきものなのだが。

                                                                  2014-7-3 記

2014年6月17日火曜日

集団的自衛権行使容認反対!


退職後、合唱を楽しむことを覚え、お陰で引きこもり老人にならずに済んでいる。とはいえ、日本の将来を考えると、歌い惚けてばかりいるわけにも行かない。
言うまでもなく、安倍政権が進める「安全保障政策」が、日本の将来を安泰にするどころか、危険にさらしかねない事を危惧するからである。

安倍政権は、「秘密保護法」、「日本版NSC(国家安全保障会議)の創設」につづいて、「集団的自衛権行使」容認のための憲法解釈の変更を、一内閣の閣議決定で決めようとしている。まことに乱暴なやり方だ。周辺国から見れば、日本は戦争する体制作りに邁進していると映るだろう。

「集団的自衛権」とはわかりにくい概念だ。自国が攻撃されていないのに「自衛権」とは奇妙な言い方だが、同盟国と目される国が攻撃された場合に共同で防衛にあたる権利、ということだろう。
日本国憲法では「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とうたい、明確にこれの行使を否定している。これが日本の形だ。
安倍政権はこの日本の形を180度変えようとしている。「解釈変更」というのは全くのまやかしであり、実態は「憲法無視」だ。

ブッシュ(父)大統領のイラク戦争(湾岸戦争)時、日本はお金を出すだけで、「人的貢献」をしないとたたかれた。それゆえ、子ブッシュのイラク戦争時には、なんとか「復興支援」の名の下に自衛隊をサマワに派遣した。幸い人的被害がなかったのは記憶に新しい。
外交当局や自民党政権にとって、この時の経験から「集団的自衛権の行使容認」は日米関係上是が非でも実現しなければならない、と考えたのだろう。
緊張が高まりつつある東シナ海の状況を考えると、「日米安全保障条約」があるとはいえ、アメリカとの同盟関係をより強固なものにするためには、アメリカが関与する国際紛争に日本もアメリカに加担しなければならないと考えてのことだろう。日米安保は憲法の制約のため、相互防衛より日本庇護の性格のものだからだ。
端的に言って、この度の「集団的自衛権」問題はアメリカとの軍事同盟強化としてみるとわかりやすい。脅威を増す中国に対する抑止力としてアメリとの軍事同盟をより強固なものにしておきたい、との思惑だろう。

戦後70年になんなんとする今、日中関係は戦後最悪といえる。悪化した国同士の関係ではどちらかが一方的に悪い、と言うことはまずない。双方に関係を悪くする要因が存在し、それをまた外交カードとして利用しようとするからこじれるばかりだ。特に、内政において多大な困難を抱える中国の場合、ナショナリズムを刺激し、意図的に外国と緊張を高めることもあるだろう。また、巨大な利益集団でもある中国軍部は、政権内部の権力闘争と相まって、政権を揺さぶる意図を働かせるかもしれない。
尖閣諸島の領有権問題は、まさに共産党一党独裁の中国政府にとって、また中国軍部にとってまたとない外交カードと映ったかもしれない。加えて、日本の保守政治家は歴史認識問題や靖国参拝で外交カードを見返りなしで提供してくれる。
いったん悪くなった外交関係はスパイラル的に悪化しかねない。最悪は戦争に行きつくことだ。

領土問題はナショナリズムを刺激しやすく、下手をすると戦争を引き起こしかねない。海底資源も期待するほどのものでなく、人も住まぬ単なる岩礁に過ぎない尖閣諸島を巡って、戦争に至るとは双方にとって愚かな話だ。

為政者はよく「国民の生命と財産を守る」という。本気でそう考えるのならば戦争につながる芽を未然に摘むことだ。そして、日本は太平洋戦争で戦った国や東アジアの国とはいかなる場合であっても戦争を行ってはならない、と強く思いを定めるべきだ。もし戦争に至ったなら、またもや未曾有の戦争災害が双方の国民を襲うからだ。ベトナム戦争以降のアメリカの数々の戦争を見ても、勝者はなく、双方が深く傷つき、戦争終結がいかに難しいか、容易に見て取れる。

安倍政権はこの度の集団的自衛権行使容認は戦争抑止のため、と抗弁するだろう。しかし、中国のような大国には、緊張を高めこそすれ、抑止力としては働かない。最も効果的な戦争抑止は様々な面で両国関係を強めることだ。

冷戦期に較べ、経済の面でのつながり、人的交流が飛躍的に大きくなった日中関係が悪化することは双方の国民にとっても、周辺国にとっても百害あって一利もない。

繰り返し言おう。集団的自衛権行使容認は、アメリカとの軍事同盟強化のためとはいえ、周辺国との戦争抑止には働かない。むしろ緊張を高めるマイナス要因となる。さらに、アメリカの戦争に加担し、人の命を奪い、また奪われることにつながる。

甥の娘が最近大学を卒業し、海上自衛隊に入ったこともあり、この問題にますます無関心ではいられない。

憲法でうたい、戦後70年営々と築いてきた日本の形を変えるべきではない。このように考えることこそ、日本の保守の思想である。


2014年3月22日土曜日

老後の火遊び


”火遊び”と言っても、比喩ではなく、文字通り火を燃やし、揺らぐ炎を見ながら、心身ともに暖まる一時を過ごすのである。
かなり前から家人が薪ストーブを付けたがっていたが、北海道出の筆者にとって薪ストーブは郷愁を誘うロマンチックな趣に魅せられると同時に、その扱いの面倒さをよく知るので、冬が過ぎるのを待ちわびつつ、その声をやり過ごしてきた。しかし、退職後の時間的ゆとりが薪ストーブの面倒さに打ち勝てそうに思えたので、家人の希望を叶えることにした。

燃焼効率を考えると、煙突は直筒屋根出しがいいのだが、既設住宅に設置するので、工事が面倒だし、雨漏りも心配なので、壁出し。
めがね石工事は大工さんに頼んだが、煙突は自分で付けたところ、孫娘が、「おじいちゃん、煙突曲げっているよ」という。屋根に上り、および腰、へっぴり腰で付けたせいか。
それでも早速火入れ。ホームセンターで買った一束8㎏¥630也のクヌギが勢いよく燃え、気持ち共々温めてくれる。

家人は庭木の剪定や古木の始末にストーブを役立てよう、それどころか燃料はそれでまかなえるのではないか、そんな甘い見通しをもっていた節があるが、薪置き場から薪を家に取り込むことが子どもの頃の日課だった筆者は、寝ても覚めても薪の調達をどうするかで、しばらくは頭がいっぱい。
真冬の寒い日だと、2~3束20㎏以上燃やすことになる。年金生活者にとって、かなり痛い出費だ。

薪ストーブのある暮らしを喧伝する雑誌などでは、薪の調達について、ずいぶん楽観的なことが書いてある。やれ、工務店から廃材をもらう、造園業者と仲良くする、森林組合から間伐材をただ同然で入手する、あるいは原木を買い、自分で玉切り、中割りする、と言った具合である。
ちょっと考えれば解ることだが、建築に伴う廃材は薪としてはあまりむかない杉や檜、合板、集成材の切れ端などである。庭木にしても、薪にむくものがどれほどあるか。間伐材も杉や檜がほとんどであろう。
原木を購入する場合も同様だが、運搬手段、玉切り、薪割り全てを自分でまかなう覚悟がいる。そのためには、軽トラック、チェーンソー、薪割り機が必要になる。加えて、力仕事を伴うので、体力も必要だ。高齢者にはこれは生やさしことではない。
持続可能なストーブ生活を送るには、やはり出来合いの薪を出来るだけ安く手に入れるほか無いのだ。

上の孫が、煙突を眺めながら、「この円い筒はどこから来ているの?」とあきれたことを言う。屋根の上に突き出た煙突ではなく、部屋のストーブから伸びる煙突をさして言うのだ。
考えてみれば、生活の中で煙突はもう馴染みのものではなくなった。それどころか、火そのものが台所にでも立たない限り、身近でなくなりつつある。
人類が火を見いだし、発火を工夫し、生活に役立て、火を生活の中心に置いた。採暖、調理、採光、いずれもが火によって営まれてきた。
今は、暖房はエアコン、炎の見えない石油ストーブ、台所仕事も電磁調理器に至っては火が全く見えない。火を必要としながら、一方で、破壊的な性格を持つ火を出来るだけ遠ざけるようにしてきたのである。

小学唱歌「たき火」は「日本の歌百選」にも選ばれ、中高年の世代なら誰もが歌ったことがある歌だろうが、秋の風物詩を彩る落ち葉焚きも、近隣や消防署からそれこそ煙たがれる。「たき火」は今では遠い昔の世界に見える。

ストーブの火を見ていると、郷愁を覚えると同時に、わずかながら野生の感覚がよみがえる。年寄りの冷や水などと家人に揶揄されながら、チェーンソーで倒木を玉切りして、薪割りのまねごとを試してみた。翌日体の節々が痛んだことは言うまでもない。