2012年3月14日水曜日

ヴィブラートと合唱

歌声や弦楽器などではヴィブラートを加えることで音色が豊かなものになる。ヴィブラートは音高、音強に「揺れ」を作るものだ。なぜこの微妙な揺れが聞くものに心地よさを与えるのか、その生理的説明はあるのだろうが、残念ながら私は知らない。専門家には常識的なことで、論ずるに値しないことなのかもしれないが、ヒトにとって心地よいこのヴィブラートが、アンサンブルには時に阻害要因になるように思える。実際、ルネッサンス期、バロック期の室内楽曲、歌唱曲などを演奏するアンサンブルではヴィブラートをつけていないように見える。ヴィブラートをつけないことで、あの透明感のあるハーモニーが生まれのであろう。
 合唱の場合はどうか。時々日本の合唱コンクールをラジオで聞くことがある。さすがに全国レベルの小中高生の合唱はハーモニーが美しい。数年前に札幌に滞在した折、全国大会入賞常連校の「札幌旭丘高校」混声合唱団定期演奏会を聞く機会があったが、見事な演奏に舌を巻いた。その時はその若い声が持つ声の質そのものをうらやましく思った。しかし、今から考えると美しいハーモニーを作っているのは声の質だけでなく、声に「揺れ」「震え」がないことにあるのではないかと思っている。私の乏しい経験でも、十代の頃はヴィブラートがつかなかった。その後あまり歌うことがなかったので、いつ頃から自然にヴィブラートがつくようななったのかわからないが、今ではヴィブラートをとる方がかえって難しいように思える。これは単に老化に伴う「震え」に過ぎないのかもしれないが。
 ヴィブラートは音程面から見ればほんのわずかピッチを外すわけであるから、完全に同じピッチで同時に揺れない限り、ハーモニーは少し濁るはずである。集団によるこの揺れがもたらす音の濁りは、音に厚みや太さをもたらし、曲によってはそれを必要とするものも当然あるであろう。しかし、私の乏しい合唱経験の中で、指導者や指揮者からヴィブラートについての指示は聞いたことがない。これは合唱ではヴィブラートをつけないのが常識で、わざわざ指示することでないのか、それともあまり気にかけるようなことではないのか、そのあたりのことがわからない。最近所属する合唱団の指揮者にこのことを話したら、あっさりと「合唱ではヴィブラートをつけないですよね」と、こともなげに言われた。
 日本合唱連盟の理事長をされている浅井敬壹氏の回想記によると、氏が率いた合唱団「京都エコー」が全国合唱コンクールで優勝を果たすために何が足りないか、本番一ヶ月前に音楽評論家の皆川達夫氏に聞いてもらったところ、「京都エコーからヴィブラートがなくなり、ピアニッシモが歌えるようになったら、すばらしい合唱団になる」といわれ、一ヶ月間、ひたすらヴィブラートをとることに練習を集中した、その結果が金賞受賞につながった、とある。(浅井敬壹「私の合唱人生」、戸ノ下達也・横山琢哉編著『日本の合唱史』2011年、青弓社、181ページ)世界的に評価が高いアルノルト・シェーンベルク合唱団や前に取り上げたアマチュアのヴェルニゲローデ放送青年合唱団などを聞くと、その澄んだハーモニーの基になっているのは、良く訓練された発声法だけでなく、ヴィブラートの付け方に秘密があるのではないかと想像している。
 合唱ではないが、オーケストラにおけるヴィブラートの付け方に関して興味深い話に出会った。それは「ティーレマンと語るベートーヴェンの交響曲シリーズ」に出てくる話で、指揮者のティーレマンが第九交響曲の緩徐楽章、第三楽章を演奏する当たって、弦楽器のヴィブラートについてヴァイオリン奏者に相談を持ちかけたところ、フレーズにふさわしく「適切に」angemessen 弾く、と返答があったという。ティーレマンが相談を持ちかけた相手が誰なのか、名前が挙げられなかったが、そのエピソードを紹介する直後の演奏場面ではコンサートマスターのライナー・キュッヒル氏の左手がアップで捉えられているところからすると、「適切に」と答えた人物は明らかであろう。ティーレマンの相談の意図は何であったのか不明だが、ヴィブラートの早さや、振れ幅の大きさに少し注文を付けたかったのかもしれない。キュッヒル氏にしてみれば、われわれに任せろと言うことであろう。ティーレマンはこのエピソードを紹介した後、このような優れた演奏者集団と仕事ができる幸福感を述べている。
 さて、私のような経験の浅い合唱団員の場合、ヴィブラートを「適切に」付ける芸当が出来ない。ともすると、カラオケで歌うように心地よく、独りよがりに歌いかねない。われわれアマチュアの合唱団は人様にお聴かせするのではなく、気持ちよく歌うのが目的だと言うのであれば、話は別だが。