2015年4月22日水曜日

平和を祈念して『夕焼け』を歌う


 所属する合唱団で、今夏のステージで歌う曲の一つに高田敏子作詞、信長貴富作曲の『夕焼け』(カワイ出版)を歌うことになった。合唱指導指揮の先生が、戦後70年の平和な歩みを蔑ろにするような空気への危機感から選んだ、という趣旨の発言をされた。この趣旨に完全に同意したいと思う。
 この曲はもともと女性合唱曲として作曲されたが、合唱団京都エコーの委嘱で混声合唱曲に編曲されたと奥付にある。わが合唱団も混声で歌う。
 信長氏自身のコメントにあるように、この曲は平和への祈念を合唱を通して共有しようという歌で、声高に反戦を訴えるものではないが、一つの反戦歌と理解して良いだろう。

 合唱経験の浅い筆者には反戦合唱曲、プロテストソングの合唱曲といってもあまり思い浮かばない。すぐに思いつくのは、金井直作詞、岩河三郎作曲の『木琴』くらいだ。この曲は一頃はNHKの合唱コンクールの自由曲に選ばれることも多く、また若い世代では校内合唱コンクールで歌った方も多いことはYouTubeでも伺える。
 中学校に勤務した経験を持つ連れ合いに聞いたところ、校内合唱コンクールでこの曲を涙を流しながら懸命に歌った生徒たちの姿を今も思い出すという。
 この詩は中学国語の教科書にも載っていたし、道徳の教材にもなっていたともいう。今の安倍政権のもとではこのような詩ですら学校教育から排除されかねない。

 話は一転するが、安倍政権による「集団的自衛権」についての強引な憲法解釈の変更以後の「安全保障」法制が、国民不在のまま、と言うより、矢継ぎ早に繰り出される諸法制で国民を目くらましにしているとしか見えないやり方で進んでいる。
 前にもこのブログで書いたが、「特定秘密保護法」にしろ「集団的自衛権行使容認」にしろ、アメリカのブッシュ(父)大統領時代の湾岸戦争での苦い経験が背景にある。多額の戦費をアメリカに供与したにもかかわらず、人的貢献の求めに応じなかったことでアメリカの不興を買った。特に外務官僚にそれがトラウマとなったのだろう。人的貢献とは端的に言えば自衛隊員の命を差し出すことになりかねない事だ。
 すでに書いたのでここで繰り返さないが、東アジアの情勢を鑑みて、日米の軍事同盟をより確かなものにしたい、と言うのが外務官僚の安全保障政策なのだろう。自衛隊の海外派遣目的の一つに邦人救助がとってつけたように付け加えられたが、自衛隊の元幹部からもこれに強い疑問が投げかけられる始末だ。
 戦争中の他国軍を「後方支援」するための「国際平和支援法」なるものも、想定する事態が机上の空論にもとづく。外務官僚や政権幹部、政権与党の諸氏の貧しい想像力を少し補うことができるスペイン映画を紹介したい。

 2012年制作の映画『インベーダー・ミッション』はブッシュ(子)大統領のイラク戦争下、主人公の軍医は友人の軍医とともにスペイン政府によるアメリカ軍後方支援としてイラクに派遣される。
 負傷したイラク女性をアメリカ軍護衛で病院へ搬送の途中、地雷攻撃に合い、さらにゲリラの襲撃から民家に逃げ込む。その際恐怖と混乱から二人はその民家の親子を殺害してしまう。
 この一連の出来事は恐怖と怪我のせいで、主人公は記憶を失ったまま帰国する。怪我から回復するにつれ、その時の出来事が断片的に思い出すようになる。
 そんな折、政府当局からイラクで経験したことの秘密を守るよう署名を求められる。秘密を漏らせば国家反逆罪に問われ服役することになる、と脅される。秘密を守れば職務に復帰でき、怪我の保障も得られると説得される。
 断片的だった記憶をつなぎ合わすため、一緒に行動していた友人と連絡を取ろうとするが、なぜかその友人はそれに応えようとしない。実は瀕死の重傷を負った主人公を救ったその友人は、戦争犯罪となり得るある出来事の一部始終を密かに携帯に録画していたのだ。
 その出来事とは、二人が民家に逃げ込んだ後、ゲリラ攻撃の報復として、二人の軍医の護衛にあたっていたアメリカ兵が集落の住民全員を銃殺、殺さないでとつぶやく幼い女の子まで射殺した事件だった。
 二人は当局によって監視され、映像の存在を当局の知るところとなり、追跡を受ける中、友人は殺され、友人の携帯を手にした主人公は逃げ延びる。当局に捕まる直前に携帯映像を放送メディアに送った主人公は刑務所に収監されるところで幕を閉じる。

 あえてこの映画の詳細を記したのは、この映画が集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法などの安全保障政策と重なる事態が描かれているからだ。今進められている『安全保障』法制が成立すれば近未来に起きうる事態がリアルに見られるのだ。
 
 この映画はWOWOWが3月に放映したものを筆者は観たのだが、時期的にタイムリーな放映であった。WOWOW番組編成者の心意気が感じられる。
                                 2015年4月22日    

2015年4月17日金曜日

フェルマータ は延声記号?



 合唱経験の浅い高齢の筆者は、楽典の知識も中学生の頃のまま。覚えるより忘れる方がはるかに早く、音楽記号・標語はそのたびに調べ直しを繰り返す。
それでもフェルマータ 記号くらいは知っていたつもりであった。

 ところが、バッハ『マタイ受難曲』の中のコラールO,Haupt voll Blut und Wunden (おお、こうべは血にまみれ)を事前練習をしていて、フェルマータ記号で伸ばすと、どうも奇妙に感じられた。コンマで区切られているところは伸ばしても、そんなものかなと違和感はそれほどないのだが、コンマで区切られていないところで伸ばすのは、言葉のつながりから考えても釈然としない。

 指導者の先生による練習時、フェルマータのところでは、指揮を止めずそのままのテンポでお振りなる。当然、フェルマータは伸ばすものと考えていたのは筆者だけではなく、乱れたまま歌い通した。一通り歌い終えた後、指導の先生はバロックの時代ではフェルマータは区切りを表すのに用いられた、と説明して下さったので疑問は氷解。
 
 あらためて手元の『クラシック音楽事典』(平凡社刊)を調べてみると、「音符または休符の長さを引き延ばすこと」としか書いていない。小学館の『伊和中辞典』でfermata の項目をひくと、音楽記号としての意味はやはり、延声記号としか出ていない。ついでながら、イタリア語では通常、この記号はcorona というとのこと。
 他の音楽事典にあたってみようとしたものの、音楽好きの孫が持って行ってしまったので、手元には日本合唱指揮者協会編の『合唱ハンドブック』(カワイ出版)くらいしかない。あまり期待せずに調べてみると、なんとちゃんと載っているではないか。先の音楽事典とは打って変わって、小粒な事典なのに、フェルマータについては次のように説明している。

 (1)臨時に拍の進行を停止させ、音や休符を延長する記号。
 (2)終止記号として楽曲の終わりを示し、複縦線上などにおかれる。
 (3)コラールで歌詞の段落を示すもの。
 
 この度は(3)の説明がそのまま当てはまる。
 
 念のため、Wikipediaの日本語版で「フェルマータ」の項にあたってみると、こちらではこの記号の歴史を含め、かなり詳細な記述がなされている。バロック以前のフェルマータ記号については、近年の研究による、とあり、まだ論議の余地がありそうだ。少なくとも中学生の理解が自明のものではないことがわかる。

 たかがフェルマータという無かれ、一度立ち止まってこの記号についてとくと調べてみる必要がありそうだ。
 そういえば、イタリア語のフェルマータとは英語の stop 、「立ち止まること」の意味。イタリアの街を歩くとよくfermataの語に出会う。何のことはない、バス停の意味。
                                              2015年4月17日