2014年3月22日土曜日

老後の火遊び


”火遊び”と言っても、比喩ではなく、文字通り火を燃やし、揺らぐ炎を見ながら、心身ともに暖まる一時を過ごすのである。
かなり前から家人が薪ストーブを付けたがっていたが、北海道出の筆者にとって薪ストーブは郷愁を誘うロマンチックな趣に魅せられると同時に、その扱いの面倒さをよく知るので、冬が過ぎるのを待ちわびつつ、その声をやり過ごしてきた。しかし、退職後の時間的ゆとりが薪ストーブの面倒さに打ち勝てそうに思えたので、家人の希望を叶えることにした。

燃焼効率を考えると、煙突は直筒屋根出しがいいのだが、既設住宅に設置するので、工事が面倒だし、雨漏りも心配なので、壁出し。
めがね石工事は大工さんに頼んだが、煙突は自分で付けたところ、孫娘が、「おじいちゃん、煙突曲げっているよ」という。屋根に上り、および腰、へっぴり腰で付けたせいか。
それでも早速火入れ。ホームセンターで買った一束8㎏¥630也のクヌギが勢いよく燃え、気持ち共々温めてくれる。

家人は庭木の剪定や古木の始末にストーブを役立てよう、それどころか燃料はそれでまかなえるのではないか、そんな甘い見通しをもっていた節があるが、薪置き場から薪を家に取り込むことが子どもの頃の日課だった筆者は、寝ても覚めても薪の調達をどうするかで、しばらくは頭がいっぱい。
真冬の寒い日だと、2~3束20㎏以上燃やすことになる。年金生活者にとって、かなり痛い出費だ。

薪ストーブのある暮らしを喧伝する雑誌などでは、薪の調達について、ずいぶん楽観的なことが書いてある。やれ、工務店から廃材をもらう、造園業者と仲良くする、森林組合から間伐材をただ同然で入手する、あるいは原木を買い、自分で玉切り、中割りする、と言った具合である。
ちょっと考えれば解ることだが、建築に伴う廃材は薪としてはあまりむかない杉や檜、合板、集成材の切れ端などである。庭木にしても、薪にむくものがどれほどあるか。間伐材も杉や檜がほとんどであろう。
原木を購入する場合も同様だが、運搬手段、玉切り、薪割り全てを自分でまかなう覚悟がいる。そのためには、軽トラック、チェーンソー、薪割り機が必要になる。加えて、力仕事を伴うので、体力も必要だ。高齢者にはこれは生やさしことではない。
持続可能なストーブ生活を送るには、やはり出来合いの薪を出来るだけ安く手に入れるほか無いのだ。

上の孫が、煙突を眺めながら、「この円い筒はどこから来ているの?」とあきれたことを言う。屋根の上に突き出た煙突ではなく、部屋のストーブから伸びる煙突をさして言うのだ。
考えてみれば、生活の中で煙突はもう馴染みのものではなくなった。それどころか、火そのものが台所にでも立たない限り、身近でなくなりつつある。
人類が火を見いだし、発火を工夫し、生活に役立て、火を生活の中心に置いた。採暖、調理、採光、いずれもが火によって営まれてきた。
今は、暖房はエアコン、炎の見えない石油ストーブ、台所仕事も電磁調理器に至っては火が全く見えない。火を必要としながら、一方で、破壊的な性格を持つ火を出来るだけ遠ざけるようにしてきたのである。

小学唱歌「たき火」は「日本の歌百選」にも選ばれ、中高年の世代なら誰もが歌ったことがある歌だろうが、秋の風物詩を彩る落ち葉焚きも、近隣や消防署からそれこそ煙たがれる。「たき火」は今では遠い昔の世界に見える。

ストーブの火を見ていると、郷愁を覚えると同時に、わずかながら野生の感覚がよみがえる。年寄りの冷や水などと家人に揶揄されながら、チェーンソーで倒木を玉切りして、薪割りのまねごとを試してみた。翌日体の節々が痛んだことは言うまでもない。