2013年12月7日土曜日

特定秘密保護法成立


予想通り、「特定秘密保護法」が成立した。

与党自民党の中のリベラル派に一縷の期待を持っていたが、安倍政権の暴走に対する抑止力として働くには、その勢力はあまりに弱すぎたと言うことか。
と言うより、明らかに自民党が大きく変質したと言うべきだろう。
それは、国民全体がいわゆる右傾化していることと無縁ではあるまい。ここで言う右傾化とは、簡単に言えば、一人一人の人権よりも“国家”を優先させる指向ベクトルである。
その結果、国会において、もはや、従来の“保守”,“革新”では割り切れない、“国家主義的”政治勢力が与野党を問わず力を増している。しかも戦争の記憶が薄い年齢層ほどこの傾向が強いことに、筆者は大きな不安を覚えるのである。

この法案を支持する人たちは、北朝鮮や覇権傾向を強める中国の存在を意識してのことだろう。北朝鮮の暴発は怖い、尖閣諸島の領有権を巡って,中国との間に不測の事態も起きかねない、そう国民の多くが不安を抱いているのも確かである。
この空気を安倍政権は千載一遇の機会と捉え、強引に成立を図った。

安倍政権が進める国家主義的諸政策はこの法案に留まらない。道徳教育の教科化やNHK人事に見られるメディア支配の強化、普天間基地の移設問題、エネルギー基本計画策定にもこの政治姿勢が垣間見られる。
国家安全保障会議(日本版NSC)の新設、特定秘密保護法、さらには集団的自衛権の確立、と見てくれば、この政権は「戦争を出来る体制作り」を目指しているとしか思えない。これは現行憲法の平和主義を否定する国作りだ。
いわゆる「決められる政治」とは、国民の意向を忖度せず、国家権力を剥き出しにすることのように見える。エネルギー政策、労働政策一つ見ても、この政権が国民の利益よりも何を優先しているかは明白であろう。筆者には現今の中国と次第に相似形をなしていくように見えるのである。

このような安倍政権を誕生させたのは、国政選挙の結果である。
一票の格差問題ばかりに焦点が合わされるが、民意を反映しにくい現行の小選挙区制ではなく、以前の中選挙区制なら、今回の事態は招かなかったであろう。さらに、ドイツなどの比例代表制に重きを置いた選挙制度なら、このような法案が上程されることもなかったであろう。明らかに選挙制度の欠陥がもたらしたものとして、今回の事態を記憶されるべきだ。

しかし、次回以降の国政選挙次第では、この法律を廃止乃至は大幅な改正も可能である点に希望をつなぐことが出来る。
国民の多くがその時まで、この政権が推し進める危険な政策をよくよく理解し、想いを持続していられるかどうかにかかっているが。


2013年11月22日金曜日

「特定秘密保護法案」に反対!


先日、所属する合唱団の練習時に、指導者の先生が今国会に上程されている重要法案「特定秘密保護法案」に反対するよう団員に呼びかけた。

この異例ともいえる行動を、団員たちはどのように受け止めたのか、今ひとつ筆者には図りかねるが、選曲にあたって普段メッセージ性のある曲を選ばれるので、筆者はこの行動を違和感無く受け止めた。それどころか、アカデミーの世界からこのような声が澎湃と上がることが期待されている時だけに、勇気ある発言と評価したい。

一般的に諸芸術の中でも音楽は政治から遠い世界にあると考えられがちである。それだけに今回の指導者の先生の言動に違和感をもった人もいるかもしれない。

言葉を持つ人間はたとえ思想性のない楽音にも、そこに想いやメッセージを読み取ることはごく自然な人間としての営みだ。ましてや社会に生きる一人の人間として、音楽と直接には関係のない事柄について発信したとしても、それもまた当然の行動として容認されるべきである。

さて、当の「特定秘密保護法案」だが、メディアなどでは「国民の知る権利が侵される」として国民の権利侵害をこの法案の弊害として上げる声が強いが、筆者が最も危惧するのは、そのことに関連して、権力に対する監視が弱まることである。

「権力は腐敗する 、専制的権力は徹底的に腐敗する」この格言は19世紀イギリスのアクトン卿の言葉だが、この格言は今の中国をみればよく解る。この専制体制のもとではメディアは共産党宣伝部のコントロール下にあり、権力にとって都合が悪いことは全て伏せられる。今の習政権がいくら腐敗撲滅を目指すと言っても、報道・言論の自由のない体制のもとでは、それがスローガンだけのものに終わることは火を見るより明らかだ。

いかなる権力も、権力執行は衆目の無いところでやりたがるものだ。それは政府のみならず自治体であろうと、会社組織であろうと同様である。

今法案は外交・防衛に関する特定分野だと安倍政権は抗弁するだろう。想定する処罰対象は公務員に限るともいう。しかしこの”特定”分野に限ったとしても、これに関わる民間人は多いだろう。また、権力の暴走を止めたいと考える良心的な公務員に足かせをはめ、萎縮させることになる。「見ざる、言わざる、聞かざる」の臆病な公務員を養うことにつながる。

さらに、いったん出来た法律は一人歩きして、将来、それこそ想定外の広範囲の適用の仕方に道を開く可能性があることは、この法律の持つ大きな危険性だろう。

それにしても、第三者のチェック機関として「首相」を想定するとは、失笑以外の何ものでもない。

2013年11月12日火曜日

「埴生の宿」の精妙なる旋律


日本において世代間の違いの大きなものの一つに、学校で学ぶ音楽教材の違いが挙げられるであろう。以前ドイツ語学習の一助にと、「菩提樹」や「野ばら」などを教材にしたところ、メロディーを知らないものが結構いたことに驚いたことがある。掲題の「埴生の宿」は今の音楽教科書に載っているのだろうか。ネットで教科書掲載曲をざっと調べたところ、どうも見当たらないようだ。

原題”Home, Sweet Home" (「楽しきわが家」)はイギリスのヘンリー・ローリー・ビショップ(Henry Rowley Bishop, 1786-1855)による作曲、アメリカのジョン・ハワード・ペイン(John Howard Payne, 1791-1852)による作詞の曲。俳優でもあり、また劇作家でもあったペインが自作のオペラ『クラリ、ミラノの乙女』の中に組込んだ。以来、この曲は独立した曲として引用、編曲され演奏されてきた。

日本では早くも1889年(明治22年)に里見義訳詞「埴生の宿」として『中等唱歌集』に収められ、2006年には「日本の歌百選」の一つに選ばれている。おそらく50歳代以上の方なら学校でこの歌を歌った経験をお持ちであろう。
日本でもこの曲は映画でも使われ、古くは『二十四の瞳』、『ビルマの竪琴』、1988年公開の映画『火垂るの墓』(スタジオジブリ制作)の挿入歌として、聞くものの涙を誘ってきた。

筆者はこの曲にほろ苦い思い出がある。
ドニゼッティの歌劇『アンナ・ボレーナ』をビデオで見ていたとき、最後の二十分間のアリア・フィナーレで、タイトルロールのアンナ・ネトレプコが歌うアリアの中に「埴生の宿」、否、Home, Sweet Home の旋律が流れてくるではないか。浅はかにもこの時、ビショップさんはドニゼッティさんの曲をパクったと思い込んでしまった。たまたまその頃所属の合唱団で「埴生の宿」を練習していた。よせばいいのに、解った振りをして「この曲はビショップがドニゼッティのオペラの中のアリアをパクった」などと練習時に言ってしまった。
その後気になったので、あらためて調べたところ、オペラ『クラリ、ミラノの乙女』は1823年初演。一方『アンナ・ボレーナ』は1830年の初演。ということで、ドニゼッティが当時すでに親しまれていたビショップさんのこのメロディーを拝借したということになる。馴染みの旋律をオペラの中に流用することはよくあることと知っていたつもりなのに、その時は早合点。

歌劇『アンナ・ボレーナ』、舞台は十六世紀イングランド。アンナ・ボレーナは英語ではアン・ブーリンまたはアン・ボーレン。夫のエンリーコは英語ではヘンリー8世。ミラノでの初演の後、翌年1831年のロンドン公演では名前は英語読みにしたのだろうか。
それはともかく、二番目の妻として略奪結婚したエンリーコはすでに妻アンナには冷淡。アンナの女官ジョヴァンナに横恋慕していて、アンナは邪魔者でしかない。初恋の相手ペルシー卿と不義密通を図ったとの濡れ衣をアンナに着せて処刑の処断。何とも身勝手な暴君である。

ついでながら、アンナとエンリーコの間に生まれたのが、近世初期のイギリスで、政治的にも文化的にも時代を画する治世を行ったエリザベス1世である。メトロポリタン・オペラであったか、ウィーン国立歌劇場での公演であったか忘れたが、刑場につながれたアンナが女の子を抱いて出てくる場面があった。その子が後の偉大な女王になるエリザベス1世という演出であろう。

件のHome, Sweet Home の精妙な変奏旋律が流れるのは、囚われの身となったアンナが精神錯乱の中、アリア「なつかしい故郷の城に」を歌う場面である。
ドニゼッティは『ランメルムーアのルチア』でも”狂乱の場”で有名なアリアを歌わせている。アリアと”狂乱の場”はオペラでは相性の良い場面なのだろう。

筆者は「埴生の宿」を歌う本番のステージで、迂闊にもこの場面を思い浮かべてしまい、声が詰まり、その後歌えなくなったことがある。涙どころか、錯乱していては到底ドニゼッティのこの難曲を歌えないのは言うまでもない。

翻って、Home, Sweet Home にしろ、「埴生の宿」にしろ、これが歌うにふさわしい場面は故郷を離れたところにある。初等、中等学校の子どもたちには、理解が少し困難なのかもしれない。ただ、不幸にも震災と原発事故で家を失った子どもたちには切ない歌と映るのだろうか。

2013年11月4日月曜日

ウイグルについて再び話そう


筆者のウイグルへの関心は、ウイグルからやって来た留学生にボランティアで日本語を教えたことがきっかけだ。それ以前のウイグルに関する知識は乏しく、せいぜい言語がチュルク語系であること、中国政府が抑圧的な政策をとっていること、一年間滞在した知人の話から親日的で美人が多いこと、と言った程度であった。

留学生が語るウイグルの厳しい現実は生々しく、TVや購読している新聞で報道されることとは大違いであった。NHKの『シルクロード』はことのほか留学生には評判が悪かった。ウイグルの現実から目を背け、ロマンあふれる西域に脚色されている、と言うわけである。おそらく当時はTVにしろ,新聞にしろ取材には大きな制約があったのだろう。
北京オリンピック開催の年あたりから日本における中国報道も変わってきたように思う。中国政府にとって不都合なことも徐々に紙面やTV画面に出でるように変わってきた。それにより、留学生が話すウイグルの現実が決して誇張ではないことが裏付けられた。

当初留学生たちは人前でウイグルのことを語ることに慎重であった。臆病と言うべきかもしれない。筆者と二人きりなって初めて重い口をひらくものが多かった。密告を恐れているのである。筆者も留学生たちに害が及ばないよう、言動には気をつけてきた。
ベルリーンの壁崩壊前の東ドイツがそうで、市民たちは人前では決して政治を口にしなかったものだ。
東ドイツではシュタージ(Stasi:Ministerium für Staatssicheit国家保安省)と呼ばれる秘密警察・諜報機関があって、市民を監視していた。正規の職員の他に、市民の中に「協力者」がいて、密告が奨励されていた。専制体制ではどこでもよく見られる光景である。
共産党が国家を主導する中国にも「共産党安全部」という組織があって、東ドイツのシュタージや旧ソ連のKGBとおなじ活動をしているのだろう。

あるウイグル人は日本人の友達と連れだってウイグルに帰省したとき、安全部の職員5,6名に連行され、10時間近く取り調べを受けたという。連れの日本人も4時間ほど拘束され,事情聴取を受けた。筆者から見てそのウイグル人はどう見ても金を稼ぐことに熱心で、日頃の言動から見ても全く非政治的な人物であった。本人は初めての経験だったらしく、「ほんとに怖かった」と述懐していた。

筆者は一度だけウイグルを旅行したが、その時案内してくれたウイグル人の知人は、筆者に「先生、ウイグルでは政治的なことは一切言わないでね。ガイドたちは安全部に全て報告するように求められているから」と念を押された。実際案内してくれたその知人も旅行中安全部から呼び出され、3時間ほど聴取を受けた。この知人も中国政府に反発するよりも、反抗的行動を取る同族のウイグル人や「世界ウイグル会議」の指導者ラビヤ・カーディル女史を「とばっちりを受ける」と言って、表向きかもしれないが、非難する人物であった。

ウイグルの治安維持には、この「安全部」の他、日本の警察にあたる「公安」、戦車など重火器を備える武装警察、さらには「生産建設兵団」と呼ばれる組織もあって、中国政府が大いに宣伝吹聴する“テロリスト集団”「東トルキスタン・イスラム運動」のつけいる隙間など無い。
散発的に起こる「テロ集団の組織的・計画的」なる襲撃事件を見ても、手にする武器はナイフなどの刃物程度。とても爆弾や重火器を調達できる環境にない。今回の天安門車両炎上事件がそうであるように、計画性もなく、組織的にも弱く、絶望を動機とする、自暴自棄的な「犯行」が実態である。

日常的にウイグル人を不安が覆う。身に覚えのない拘束。いつ拘束されるかわからない,拘束されれば拷問が待ち受けるかもしれない、家族とも連絡が付かないまま消されるかもしれない、そういう不安の中で暮らしている。2009年のウルムチ事件の時、デモ隊と公安、武装警察が衝突したとき、たまたま通勤の途上そこに居合わせただけで拘束されたものもいた。拘束されたものの中にはそのまま行方が分からないものが多数いる。
ウルムチ事件後しばらくは3人以上集まると拘束される恐れがある、と警戒された。1997年のグルジャ事件の際もウイグル人の集会が取り締まりの対象になったことがあったので、これが初めてではない。おそらく今回の事件以降、ウイグル人が集まることに中国公安当局は異常な警戒心を示すことで、威圧するのであろう。

あるウイグル人は北京に滞在したとき、部屋を取ろうとしたが、どのホテルでも断られた経験を持つ。明らかにウイグル人だと解っての拒絶だったという。
北京ではいつ頃のことか、「ウイグル人は盗みを働く」というデマが広がった。今回の車炎上事件に際しても、「ウイグル人は教育が無く、素行が悪く、言葉も出来ない」などという差別的な市民の声があった。留学生に聞いても、ウイグルでは窃盗事件が多発しているようには見えない。むしろ、ムスリムとして信仰心が篤いので、神を裏切る行動にはブレーキがかかるといってよい。
「ウイグル人は盗みを働く」というデマにはある背景があった。漢族によって誘拐されたり、騙されて北京に連れてこられたウイグル人の子どもたちが盗みを強要され、成長してからも生きる術なく盗みを働いたものが多数いたという。これはある漢族の研究者による調査報告によるものである。
「人さらい」は過去の話のように思う人が多いだろうが、2,3年ほど前にも中国で子どもが多数さらわれ、煉瓦作りの奴隷労働を強いられていたことがニュースになった。

ウイグル人に対する差別は日常的である。ウイグル自治区に進出した漢族企業は人員を採用するにあたって、漢族を雇用する。言語を理由に挙げるが、今日のウイグルの大学ではすべて中国語で教育が行われるので、大学卒なら中国語が出来るのでそれは理由にならない。運良く職を得られても、周りは漢族ばかり。あるウイグルの女性はあるとき、漢族上司から「特別なサービス」を求められ、それがいやでその職を離れたと言う。

近年ウルムチの新疆大学でウイグル人多数採用の話があり、色めき立ったが、募集は「公安(警察)」であった、という笑えない話がある。ウイグル族の取り締まりにウイグル人を当てるというわけである。
一時期に較べ、近年は大卒者の就職も若干好転していると聞くが、今後どうなるか。ウイグル人の起業が差別的な制約から少なく、また規模も小さいので、ウイグル族の不満は雇用問題に起因する面も大きい。休日でもないのに、日中何するわけでもなく街にたむろする大勢のウイグル族の若者たちが今も目に焼き付いている。

ウルムチは今はすっかり漢族の街になったと言っても過言ではない。ウイグル文化が濃厚であったカシュガルで、中心街の古い建物が次々に取り壊され、観光目的としか言いようのない建物が漢族資本によって建てられ、ウイグル人の憤懣を買っている。緑豊かなウイグル自治区北西地域ばかりでなく、パキスタンなどとの国境に近い南西地区にも漢族は進出しているのである。

旅行中、黒いベールで顔から体全体覆った女性が、カシュガルの街をバイクで疾駆する姿が目撃された。今はどうか。
イスラム教に限らず宗教を否定する共産党政権は、モスクに中国国旗を掲揚することを強制し、(アッラーよりまず中国共産党政権に敬意を示せ、という訳か)18才以下のモスク入りを禁じ、宗教指導者は共産党政権の息のかかった人物にすることを求め、ウイグル人たちの反感を買うことに精を出している。

習近平政権は、ウイグルに対して懐柔政策をとるのではないかとの淡い期待に反して、ウイグルに対する敵視政策を一段と推し進めているように見える。それだけ政権に余裕がないのだろう。
政権基盤が弱いだけでなく、中国経済が一頃の勢いが無くなり、300兆円にも上ると言われるシャドーバンクの負債爆弾が今後中国経済を奈落に落としかねない不安があるからでもある。
今国内を引き締めるのに異常と思えるほど毛沢東を引き合いに出していることからも、自信のなさが伺える。
この姿勢は日本にとっても人ごとではない。習政権は対外的にも今後一層強い姿勢を取らざる得ないからである。

中国政府がウイグル問題を根本的に解決し、安定的に自治区を統治するには、200万人漢族からなる「生産建設兵団」をはじめ、域内に住む漢族を内地に引き上げ、自治区のものは自治区に返し、自治区おける核兵器実験を完全に停止し、実験による被害者を救済し、ウイグル侵略を止めることだ。

もしこれが現実的な解決策でないとすれば、せめて、ウイグル敵視政策を即時廃止し、これ以上の漢族移民を停止し、企業や公的機関において少数民族の雇用を一定以上義務づけること、中国の憲法に謳っているとおり、教育において少数民族の言語と文化を守ること、宗教活動に政府が介入することを禁じること、これらのことは今日普遍的な政治原理になっていることばかりである。

これすら出来ないような国家は、われわれから見て全く異質な国と言わざるを得ない。

2013年10月31日木曜日

西域に思いを馳せて


数年前までならウイグルといっても、あまりぴんと来ない方も多かったに違いない。
「中国新疆ウイグル自治区」と聞いて、初めて中国の西域に住む少数民族のことだと思い浮かべる人もいるだろうか。

新疆ウイグル自治区は日本の国土面積のおよそ4倍以上。この広大な自治区は多民族からなり、今では最も多いのは漢民族で、40%以上を占める。次に多いのがウイグル族で、1990年の人口調査に依れば、720万人あまり。

毛沢東率いる共産党が中華人民共和国を建国した1949年頃は、漢民族はまだ数十万人ほどしか住んでいなかった。当時は70%以上がウイグル族。漢族は10%程度。つまり、建国後、大規模な移民政策のもと、大勢の漢民族が移り住んだのである。
「新疆」という用語そのものが、この地域が中国の新しい領土に組み込まれてことを物語っている。

「ウイグル」という呼称は古い文献にもあると聞いているが、この呼称が使われるようになったのは比較的新しいことのようだ(『世界民族事典』弘文堂発行、「ウイグル」の項)。
西方からやって来たチュルク語系遊牧集団がオアシスに定住するようになり、やがてイスラム文化を受け入れ、農業や交易を営んできた。

この地域は18世紀半ばに清朝によって征服され、漢民族によって支配されてきたが、その間、「カシュガル人」、「トルファン人」、「ホタン人」というオアシスの民は、言語的に(チュルク語系と言うより広義のトルコ語といった方が解りよいかもしれない)、ムスリムとして宗教的・文化的に、ウイグル族という統一的な民族アイデンティティを持つようになっていった。

清朝体制下では、地域内に住む漢族はまだきわめて少数に留まっていたし、清朝体制はウイグルに対してまだそれほど抑圧的ではなかった。しかし清朝末期になると次第にウイグルとしての民族意識が高まり、独立を求める動きが活発になる。一時は「東トルキスタン国」を名乗ったこともある。

1955年に「新疆ウイグル自治区」が成立。「自治区」とは名ばかりで、実態は北京政府中央から派遣される漢族高官が統治する。
中国政府が言う「西部開発」の先兵となったのは大半が漢族からなる200万人規模の「新疆生産建設兵団」という巨大な組織。西部開発と国境警備にあたる。
ウイグル自治区は広大な砂漠を抱えるが、チベット同様、石油、天然ガスをはじめ、豊かな鉱物資源に恵まれる。これら資源開発に従事するのは大半が漢族。原油・ガスパイプラインは西から東の方向に伸び、自動車燃料価格は中国東部よりもウイグル地区の方が高いという。

政府が言う「西部開発」はまず道路網整備と鉄道建設にはじまるが、この地域に暮らすウイグル族をはじめとする少数民族にとって、それらの交通網整備は漢族による収奪のための流通手段としか映らない。
開発に伴う雇用は新たにやってきた漢族に振り分けられ、ウイグル族などの失業率は高い。

このように見てくるだけで容易に理解できるように、ウイグル族の漢民族に対する感情はきわめて悪い。
それに拍車をかけるのは近年強める一種の同化政策。学校における言語教育(初等教育から中国語による授業)や反イスラム色の強い宗教弾圧。
ほとんどのウイグル人は、不可能と解りつつも独立したいと考えているだろう。

単発的にウイグル人小集団が過激な行動に出ることを捉えて、中国政府は”ウイグル人テロリスト”を誇大に宣伝する。9.11後、アメリカ同様、中国政府もイスラム過激派のテロ組織と戦っているというわけだ。

2009年7月に自治区首都ウルムチで起きた争乱も、テロリストなるものが引き起こしたのではなく、もとは請願デモであったものが、自治区トップの王楽泉が挑発して、結果として大きな騒動に発展したと言われている。この争乱では主に漢族が200人近く死んだと発表されているが、実際は1500人ものウイグル人が殺されたと言われている。この事件後、「新疆王」と揶揄される経済的にも腐敗した王楽泉は北京に栄転(左遷?)。ウイグル人に対する締め付けは依然緩むことはない。

最近ウイグルから戻ってきた友人の話に依れば、今年6月に起きたピチャン県(トルファン南東)の事件後、ウイグル族に対する差別的な取り締まり強化も手伝って、近いうちに大きなことが起こりそうだという。
胡錦濤、温家宝後の新しい習近平,李克強体制は権力基盤が弱いので、このような体制は抑圧的にならざるを得ないから、ウイグル人は気をつけた方がいい、と伝えた。

その直後、10月28日に北京天安門前広場で車炎上事件が起こった。報道に依れば関係者はピチャン県事件で警察によって殺された遺族だという。

中国政府系メディアが伝えることに依ると、この事件は少数のイスラム過激派のテロリスト集団が組織的・計画的に引き起こしたテロ事件(決まり文句)で、今後ウイグル人は中国のどこにあっても厳しい取り締まりの対象になる、と警告している。
少数の過激派と言いつつ、ウイグル人全体が取り締まりの対象という。ウイグル人は皆テロリストか、その予備軍というのだろうか。

筆者は悪い冗談ながら、漢族中国政府はあの広大な資源豊かな、ウイグル人のいない新疆(新しい領土)を欲している、中国政府はウイグル人を全て追い出してでも新疆を手放さないだろう、とウイグル人の友人たちに、独立は夢物語だと常々言ってきた。

彼らの気持ちが痛いほど解るものとして、彼らの暮らしが平穏に過ぎることを願ってやまない。

今回はまた合唱とは何の関わりのない話でした。悪しからず。

2013年10月19日土曜日

「歓喜(Freude)に寄す」か「自由(Freiheit)に寄す」か


先だって合唱の仲間と話していたら、ベートーヴェンの第九交響曲で歌われる詩の作者フリードリッヒ・シラーは、この詩を作るにあたって、当初は”Freude”ではなく、”Freiheit"としていたが、当時の専制体制の中で、検閲を免れるために"Freude"  に変えて発表したようだ、という話があった。筆者にとっては初耳の話で、もしかするとこれまで知られていなかった資料、例えば書簡とか、同時代人の証言などが出てきたのかもしれない、と考えて、その話には異論を挟まず、「そういえば、1989年のベルリーンの壁崩壊を祝う記念コンサートでは"Freude"を”Freiheit"に変えて歌っていましたね」と言葉をつないだ。

筆者はシラーを専門にしてきたことがないので、持ち合わせの文献もほんのわずか。それでも少し気になったので手元にある5巻本のシラー選集(Aufbau版、1967年刊)やシラー注釈書Schiller Kommentar(Winkler,1969年刊)、さらにはペーター・ラーンシュタイン著「シラーの生涯」(法政大学出版局、2004年刊。原書は1981年刊))などの当該箇所にあたってみたが、それが事実ならきわめて重要な事を裏付ける証言は見つからなかった。
しかし、筆者の持ち合わせる文献はいずれも30年~45年前のもの。その後の新発見もあり得るので、ネットで少し調べてみたところ、日本語ウィキペディアにそれらしい記述が載っているではないか。ただその記述は参照した文献の誤訳に基づくものとも見えるので、信頼性に欠ける。

ネットで調べていると、第九を歌うある合唱団が名称に「フライハイト」"Freiheit" を用いているのに出会った。驚いたことに、そのウエブサイトでも上記と同様のことを謳っている。
これはかなり広範囲に広がっている話ではないか、と考え、その出所が気にかかり、その後も暇を見てはしらべていたところ、1986年に発行された「別冊太陽 ベートーヴェン交響曲第九番 合唱付」にこれに関連する記事が載っていた。
それは藤田由之と諸井誠の対談の中で、ドイツ文学者の川村二郎によるシラー詩の解説を受けて,藤田氏が「今の川村さんのお話で、やはりシラーの詩は自由のための詩であるように思いますね。シラーの詩は"An die Freude"と題されていますが、本来それを"die Freie"としたかった、つまりdie Freieは自由民という意味ですが、当時の世相が、その言葉を使うことを許さなかったという説もあります」と述べている。

これが事実ならきわめて重要な指摘になるその”説”の出所は、残念ながら示されていない。なお、ドイツ語 ”die Freie” は文法的には "die Freien" と複数形にしないと「自由民」の意味にはならない。
それはさておき、この「別冊太陽」には他にドイツ文学者の高辻知義も対談に加わっているが、奇妙なのは、著名なドイツ文学者の川村、高辻両氏が藤田氏の発言を裏付けることを何も語っていないことである。

藤田氏発言の時期からすると、この新説は新証拠発見に基づくといった最近のことではなく、大分以前から流布していたものと考えるべきだろう。
シラー研究文献は上述の通り持ち合わせていないので、ここはネットで調べるほかに手はないと考え、手始めに、ドイツ語版ウィキペディアや英語版ウィキペディアなどにあたってみたが、この説に言及したものは見当たらない。一体日本語版ウィキペディアのあの記述はどういうことだろう。

ネットを調べていくと、Alexander Rehding の”Ode to Freedom":Bernstein's Ninth at the Berlin Wallという2005年に発表された論文に出会った。 その中に、Bernstein が1989年11月のベルリーンの壁崩壊を記念して同年クリスマス休暇中に演奏した第九において、"Freude"を"Freiheit" に置き換えたことへの言及がある。それによると、Bernstein 自身はこの変更について学術的な根拠はないとしながら、シラーは元々"An die Freiheit" と題する詩を書いたが、検閲に屈して"An die Freude"に変えたとする1849年発表のFriedrich Ludwig Jahn の記事に依拠した模様である、とRehding は書いている。

筆者はF. L. Jahn の記事も、Bernstein の第九演奏を収録したCD Bookletを見ていないので正確なことはいえないが、Rehding も指摘するように、Jahn の説は今ではいかがわしいものと見なされていると考えていいだろう。Jahn は"Turnvater" ”体操の父”とよばれる教育者にして政治家だが、シラー研究の中では彼のこの発言は無視されてきたのだろう。

確かに、シラーの詩ではFreudeをFreiheitに置き換えても意味の齟齬無く脈絡は繋がる。さらに言えば、シラー自身自由への希求の念は誰にもまして強かった。フランス大革命の前夜、時代の空気も自由、平等、友愛を求めるものであった。彼自身はこの理想主義的理念を掲げるフリーメーソン(ドイツ語"Freimaurer")の一員ではなかったが、この詩がなった頃、彼の仲間にはロッジLoge(フリーメーソンの支部)に加わるものがいた。専制体制が重くのしかかる時代にあって、すでに『群盗』を発表し熱烈に迎えられていたシラーほど自由への頌歌を歌うのにふさわしい詩人はいなかっただろう。

しかし、この詩の成立事情を考え合わせると、やはりJahn の説は受け入れられない。若くして新しい文学の騎手に名乗り出たものの、経済的苦境や人間関係に苦悩するシラーにとって、ザクセンの友人たちが温かく迎えてくれたことは彼の人生にとって最も歓びに満ちた時期であっただろう。この頌歌のメッセージは普遍性を持つとはいえ、まず若きシラーの個人的な事情が、人生の歓びを歌うこの詩に昇華されたと見るべきである。

2013年10月8日火曜日

朗読を聞く


先週の土曜日(105日)、友人が参加する朗読会の発表会に出席した。

このような催し物の朗読を聞くのはこれが初めてだ。200人程度収容の会場はほぼ満席。ほとんどが中高年の、特に女性が目立つ。朗読者たちと相似形をなす。

朗読者は全部で7名。一人15分~20分の持ち時間で、主に小説作品を朗読する。会場は元々映像ホールなので、黒いステージにスポットライトを浴びて、直立不動の姿勢で朗読する。聞いている方も緊張を強いられる。

その朗読会は創立30周年を迎え、発表者もベテランなのか、皆巧い。練習を重ねたのであろう。淀みなく、滑舌も確か。アーティキュレーションの訓練が良くなされている。

取り上げられた作品は古典から現代作品まで多様だ。
現代物は聞き手も時代を共有するだけに、聞き手を納得させるだけの力量を要する。古典や明治期などの作品では、聞き手にいかに言葉を届けるかが問われる。聞き手がすでに何度も読んでいる作品はともかく、初めて接する作品では、日常語から懸け離れている場合は意味不明になりかねない。漢語ならかえって視覚に頼る方が理解しやすい。
和語は耳に心地よいが、現代人には馴染みの無い言葉も出てくる。前後の脈絡から理解できるように工夫する必要がある。

今回発表した友人とも話したが、朗読するためにはテクストの徹底した理解が必要になってくる。小説作品の場合、地の文と会話体の文からなる。地の文は語り手の文だ。会話文は人物の肉声だ。
物語には語り手と人物たちがいる。語り手には三人称の語り手と一人称の語り手がある。朗読にはまず語り手像の把握が必要となる。
それら虚構の語り手と人物たちの関係・距離をつかむことが、人物像の把握に繋がるし、人物たちの言葉の理解を容易にする。語り手は人物を客観的に見ているのか、感情移入しているのか、冷淡なのか、また物語のどの人物の目を通して見ているのか、それらを問う必要がある。これらのことが朗読に反映される。

このように、朗読はアーティキュレーションの問題だけではないことは言うまでもない。物語作品の解釈が問われるのである。その上に立ってパフォーマーとしての表現力が求められる、一つの舞台芸術である。

ニッケルハルパの音色


少し前に、わが家のミニホールでニッケルハルパコンサートを開く旨宣伝をした。

今週日曜日(10月6日)午後、アコーデオンの低音にのってニッケルハルパの素朴な、それでいて繊細な音色が、少し遠くから流れてくるように、行進曲でコンサートが始まった。さながら、北欧の田舎の祭りが目に浮かぶような音色である。

演奏者の鎌倉夫妻は民族衣装に身を包んで、ニッケルハルパの演奏と紹介、さらには舞踊と、トークを交えてスウェーデンラップランド地方の文化を紹介してくださった。

日本では馴染みが薄いニッケルハルパ。キー付きフィドル。音程はキーを押さえ、弓で4本の弦を弾く。奏者の鎌倉和子さんがおっしゃるには敷居の低い楽器とのこと。初心者がとりあえず正確な音程の音を出す、ということなら敷居が低いといえるが、演奏となると決して生やさしい楽器ではない。ヴァイオリン同様、ボーイングが重要になる。
4本弦というと、ヴァイオリンの仲間を浮かべる方も多かろうが、直接弓に触れない12本の共鳴弦が付いているので、音色もヴァイオリンとは少し異なる。繊細さに野太さがプラスされているように感じた。言うなれば、味わいのある楽器である。

この夏滞在先の札幌の地下道を歩いている時、偶然、初めてこの楽器の演奏に出会った。京都からやって来た若者たちのグループが、北海道公演に先立ちデモ演奏を行っていたのである。
すでにわが家でコンサートを開くことが決まっていたので、初めて聞くニッケルハルパの音色がとても気にかかった。というのは、打ち明けて言えば、このときの演奏では、主役とも言うべきニッケルハルパが他のビオラやギター、ドラムにかき消され、地味な印象しか持てなかった。ヴァイオリンが持つ華がないのである。

しかし、この度わが家での演奏は札幌での印象と全く異なった。若者たちは自分たちのオリジナルの曲を演奏していた。鎌倉さんは伝統的な曲を演奏してくれた。そのような演奏曲目の違いはあったろう。それ以上に印象を変えたのは、音響空間の違いであったと思う。札幌では雑踏の中、響きの悪い最悪の環境であった。

手前味噌になるが、わが家のミニホールは大きさの割には残響もあって響きがよいと演奏者から評価を得ている。とくに、ヴァイオリン、ギター、マンドリンのような繊細な音の楽器に向いていると思う。
この度の演奏では、共鳴弦の響きがよく聞こえ、ホールいっぱいに音が広がった。そのニッケルハルパの音色をそっと支えるように、ご主人がボタン付きアコーデオンで低音を奏で、まことに息のあった演奏を披露した。筆者の連れ合いも、目に涙がにじむ、心に響く演奏であったという。

鎌倉さんご夫妻は元来、民族舞踊の研究を続けてこられ、その中でニッケルハルパと出会い、何度もスウェーデンに渡航された。筆者の理解では、まるで三味線の習得に師匠に弟子入りするかのようにして、この楽器の演奏を習得されたようである。

鎌倉さんご夫妻から日曜日の午後、素晴らしい一時をご提供戴いたのであるが、集客が思うようにいかず、このようなすてきな時間を共有する人が少なかったことが残念である。それでも30名近い人々が満足して帰路についたものと確信している。

この場を借りて、鎌倉さんご夫妻にお礼申し上げたい。

2013年10月3日木曜日

Psalm 98 (詩編98)を歌う


筆者が所属する男声合唱団は、今県合唱祭に向けて「詩編98」の練習をしている。
前回の練習時に、最年長の団員H.W.さんが、歌詞を、わかりやすい漢字かな混じり文に直して、メンバーに配った。お陰で、今ひとつ意味が通らなかった部分が明らかになり、解りよくなった。

この曲は合唱曲集「グリークラブアルバム1」(カワイ出版)にも掲載されていて、男性合唱曲としてはよく知られたものだが、編曲者平田甫の名があげられているのみで、原曲が誰に依るのか全く解らないので、インターネットを使って少し調べてみた。

手がかりを与えてくれそうなのは「さえらのすし」さんのWEB サイトだ。同志社大学グリークラブ出身の「さえらのすし」さんによると、この曲は同グリークラブの定番曲の一つとのこと。編曲者平田甫は同グリーの第3代指揮者。
平田甫氏がグリー50周年記念誌に寄稿していて、その文章を抜粋で紹介している。ここにそれをそのまま引用する。なお、同志社大学グリークラブの創設は1904年までさかのぼる。

「ある日平安教会で堀内清氏が横浜か何処かで手に入れられた謄写版刷りの一曲。美しい礼拝向きの混声曲。相当変化はあるし、讃美歌ばなれをして居る。勿論不相応なことは判って居る(中略)。まるで追われる様にして編曲したのが此の詩篇第九十八(中略)。曲が礼拝向で実に美しいが演奏会には少し地味すぎる(中略)。神戸の青年会で歌った時に、試みに終りをオクターブ上げて、フォルテシモにして見た。それまではピアノでアーメンを歌っていた。」

同WEB サイトには、古い手書き合唱曲集の書誌もあって、「Choir Book」というタイトルの曲集の13番目に、「詩の九十八」(詩編98)の楽譜が掲載されている。この曲の楽譜の下には「神戸教会聖歌隊 1923.9.16」と書き足してある。この曲集表紙にも「神戸組合教会聖歌隊発行 第三版」とあるので、少なくとも関東大震災と同年1923年か、それより前に横浜の教会や神戸教会、さらに京都の平安教会では歌われていたということになる。おそらくこの楽譜は、平田氏の証言を考え合わせると、現在われわれが手にする平田甫編曲による男性合唱曲以前の混声原曲のすがたをとどめていると考えていいだろう。

しかし、これまで調べた範囲ではまだこの曲の来歴に関しては不明のままである。
日本基督教賛美歌委員会によって1997年に編纂・出版された『賛美歌21』にも、ざっと見たところのっていない。上記平田氏の文に「横浜か何処か云々・・・」とあるので、日本で最初のプロテスタント教会である横浜公会(現在の日本キリスト教会・横浜海岸教会)がまず念頭に浮かぶ。そのあたりが出発点か。
筆者は当初、この曲は欧米で作曲され、それが宣教師か讃美歌集の楽譜で日本にもたらされ、日本語に訳された、と考えた。しかし訳詞にしては旋律と日本語がとても良くあっている。日本語歌詞が旋律に乗せるために意訳をほどこされたとは見えない。日本語が実に無理なく旋律に乗っている。先に日本語テクストがあって、それに曲を付けられたように見える。
そのように見ると、この曲は欧米などで作曲されたのではなく、例えばプロテスタント系の教会関係者が日本語詩編98をもとに作曲して、それがガリ版刷りで広まったと考えたほうがいいかもしれない。
YouTube でさまざまな、大半は欧米の「詩編98」を約50曲ほど視聴してみたが、当該の旋律の曲に出会うことはなかった。筆者の持てる手段ではもはやお手上げである。この先は讃美歌学の専門家に尋ねるか、欧米由来も考慮して欧米の当ジャンルの楽譜や文献に当たるほかないだろう。

親しまれていながら、存外その来歴がよく知られていないものが結構あるものである。この曲もその一つだろう。
このブログを読まれた方でご存じの方はご教示ください。

旧約聖書「詩編98」はもちろん日本語訳で読むことが出来る。以下はその日本語テクストである。訳は岩波書店版、「旧約聖書」全15冊の第11巻、松田伊作訳によった。( )はその訳注である。

詩編 98
 (その救いの業を見た全世界に、主ヤハウェへの喝采を促し、自然界とともにそ  
  の来臨を待ち望む、民の歌。)

うたえ、ヤハウェに、新しい詩を。
不思議な業をかれが行ったからだ。
かれを救ったのはかれの右手と
かれの聖なる腕。
ヤハウェはかれの救いを知らせ、
諸国民の目にかれの正義を顕した。
かれは思いを起こした、
イスラエルの家への
かれの恵みと信実を。
地の隅々までことごとくが見た、
われらの神の救いを。

凱歌をあげよ、ヤハウェに、全地よ。
ほがらかに歓呼し、ほめ歌え。
ヤハウェをほめ歌え、琴を持って、
琴とほめ歌の声とをもって。
喇叭と角笛の音とをもって
凱歌をあげよ、ヤハウェ王の前に。

どよめけ、海とそれに満ちるものは、
大地とそれに住むものら[も]。
諸々の河は掌を打ち鳴らし、
山々もともに歓呼せよ、
ヤハウェの前に、かれが来るとき、
地を裁くために。
かれが裁くように、義をもって大地を、
公平をもって民らを。


全部で150編からなる「詩編」の創作年代は正確には分かっていない。数百年間に及ぶ時間的広がりを持つとみられる。作者も不明である。「詩編」の書の成立は前2世紀~後1世紀と見られている。
詩編は、祭儀などにおいて集団で歌うことを前提にしたもの、あるいは個人の祈りの中で唱えられるものなど、いくつかの類型に整理する試みがなされてきた。内容的には当該「詩編98」がそうであるように、神に対する賛歌が多いが、民や個人の嘆きの歌、感謝の歌、王の詩編、巡礼歌など、一義的に祭儀に結びつけるのには無理がある。今日では非祭儀的な朗読用の「祈りと思索の書」と見る見方が優勢のようだ。

英語や独語では「詩編」をPsalms;Psalter, Psalm というが、これらの語源には「讃歌の書」の意味がある。なお、英語では語頭のps-, pt- のpは発音されないので、[サーム] と発音されるが、ドイツ語 Psalmは[プサルム] と発音する。

15世紀頃までは、詩編は教会旋法に基づいて歌われてきたが、ジョスパン・デプレが初めて詩編テクストを用いてモテットを作曲している。ルターやカルヴァンの宗教改革以降はプロテスタント系の教会において、ラテン語に依らずに、英語、仏語、独語のテクストをもとに作曲され、詩編歌集が次々に生まれた。ルター自身詩編をドイツ語に訳し、作曲している。「詩編98」には、後にメンデルスゾーンも曲を付けている。

YouTube を視聴すると、創作詩編歌が今も生まれていることがうかがえる。90年あまり前の日本でも、オリジナルの詩編歌が作曲されていたとしても不思議ではない。


2013年9月28日土曜日

市民合唱団の悩み


長年にわたり高校で合唱指導に当たってきた指導者が、退職後、ある地方都市の市民合唱団の指導を始めることになったとき、大きなショックを受けたという。
高校ではほとんど毎日練習しているわけだが、市民合唱団では毎週1回の練習があればまだいい方で、月2,3回の合唱団もある。その数少ない練習にも休まざるを得ない人も出てくる。これはわかっていたつもりでもショックであったという。
さらには、高校生は言ってみれば均質集団であるが、市民合唱団は年齢層も、合唱経験の多寡も、参加動機もまちまちの集団。それだけに選曲を含め、指導の照準をどこに合わせたらいいのか、指導者の悩むところとなった。

ここで言う市民合唱団とは、歌いたい市民が自由に参加でき(従って歌唱力はまちまち)、週に1回、あるいは月に2,3回の練習を、曲目選定から練習スケジュール全てを指揮者に委ねる、どこにでもよくある合唱団のことである。

筆者は合唱を初めてまだ5年足らずと短いが、これまで関わった6つの合唱団のうち、4つはここで言う市民合唱団である。

地方小都市の市民合唱団は、おそらくどこも似たような困難を抱えているのではないだろうか。その困難とは、一つは高齢化、比較的若い年齢層も参加している合唱団の場合には、仕事などの都合で練習日、時間に皆がそろわないこと、混声合唱団の場合はパートごとの人数バランスの悪さ(男性が少ない)、そしておそらく最大の困難は、露骨な言い方で恐縮だが、個々の歌唱力の違いだろう。

歌唱力と言っても、すでに一定水準にある歌手の表現のための「歌唱力」のことではなく、ここでは、練習によって楽譜通りの音程、リズムで歌える基本的な力があるかどうかということ。これは経験の多寡、特に若年時からの音楽に親しむ機会の多寡に大きく左右されるだろう。
筆者の所属する合唱団で合唱は初めてという人が最近加わった。失礼ながらその方が歌うのをそばで聞いていると、まずピアノに合わせて音を取ることが出来ない、おなじパートの人と声を合わせられない、違っていてもそれを自覚できない、そのような合唱経験が皆無という人も加わるのが市民合唱団である。

かくいう筆者も、階名で歌うのに慣れていないし、固定ドで歌うこともかなわない。音取りはもっぱら片手でひくピアノに頼っているし、音取りも遅い。もうすぐ古希を迎える年のせいか、覚えるのに時間もかかる。覚える前に忘れていく。ピッチも不正確。ビブラートといえば聞こえがいいが、声の震えを取るのに苦労する。

こんなレベルの筆者をも受け入れてくれるのが市民合唱団の良さでもある。健康にいいから歌いたい、人と交わりたいから歌いたい、といった目的で参加することも、市民合唱団ならどこでも容認されていると思う。

しかし、このような市民合唱団であっても、合唱することが目的なら、合唱のレベルを少しでも上げようと努めることも至極当然である。指導者は合唱団の現実に戸惑いながらも、コンクールや合唱祭参加、演奏会の開催などをレベル向上のための大きなモチベーションに、時には団員を叱咤激励、鼓舞して指導に当たる。しかし、時には指導者の意向と団員の気持ちがすれ違いになることが起こる。

寛容であること、それは指導者だけに求められる普遍的な資質ではない。合唱団員にも求められる姿勢であることは言を俟たない。

2013年9月24日火曜日

最大規模の合唱


千人交響曲、5千人の第九合唱など、大きいことは何とやらで、やたら規模を大きくしたがるのは人間の習性なのだろうか。
人数の多寡で言えば、スポーツイベントで、スタジアムで歌われる国歌やテーマソングなどは数万規模の合唱になる。アメリカ大リーグの試合途中で歌われる「私を野球に連れてって」の大合唱もよく知られたものの一つだ。

そんな中でおそらく最大規模のものは、スペイン バルセロナのスタジアム、カンプ・ノウでFCバルセロナ選手入場の際に歌われる大合唱だろう。カンプ・ノウの収容人数は99,000人を超える。宿敵レアル・マドリッドとの対戦カード、いわゆるクラシコともなれば超満員になり、そのほとんどはバルセロナファンであろうから、9万人を超える大合唱になる。
筆者はテレビで見るほか無いのだが、テレビ画面からもスタジアムの雰囲気が良く伝わる。

さて、そのリーガ・エスパニョーラ'13ー'14 シーズンが始まって1ヶ月が過ぎた。第5節が終わって、話題の新戦力もそろそろ自分の立ち位置が次第にはっきりしたことだろう。
このシーズン最大の話題はなんと言ってもバルセロナ加入のネイマールとレアル・マドリッドのベイルだろう。ネイマールの移籍金が約70億円、ベイルに至っては120億円とも聞く。ネイマールの移籍にあたっては、メッシとの共存に疑問も出されていたが、すでにメッシのゴールアシストを2回。チームにフィットしつつあるようだ。代わりにリーガ初得点を挙げられずにいる。彼のプレースタイルがファールを受けやすいので、今後怪我の心配はある。

一方、電撃的な開幕直前の移籍となったベイルだが、初戦で彼らしい得点を挙げ、順調な滑りだしと思われたところ、5節を前に怪我をしてしまった。幸い軽傷の模様だ。彼なしでも、第5節ヘタフェ戦は4対1の快勝。その層の厚さはさすがというほかない。昨シーズンの戦力から、エジル、カカー、イグアインが抜け、マルセロ、コエントラン、シャビ・アロンソを怪我で欠きながら、新たに加入した若い戦力の活躍で順調な滑り出しと言っていいだろう。21才以下欧州選手権でスペイン代表として活躍したイジャラメンディとイスコはレギュラーの座を獲得しつつある。レアルのカンテラ育ちのヴァラン、モラタ、カルバハル、ナチョなど、モウリーニョ時代自チームのカンテラ育ちをあまり使わなかったことと対照的だ。これら若手が使われ続けば、巨額の移籍金によるチームも変わっていくのかもしれない。自チームのカンテラ育ちを多くベンチに入れるバルセロナのチーム作りをレアルも取り入れようとしているのだろうか。テレビ放映権などマーケットとして世界を意識すれば、巨額の移籍金によるチーム作りが役立つだろうが、地元ファンの拡大のためには自らのカンテラ育ちを使う方が経営的にも安定するだろう。財政的にともに巨額でありながら、このところチーム作りが対照的であったバルセロナとレアル。今後も話題には事欠かない。

合唱にかこつけて、好きなスペインサッカーの話題でした。

合唱と健康


34年ほど前、かかりつけのお医者さんにコーラスをやっていると話したら、それは健康にいいから続けてください、といわれた。その時は、一般論として、この年になれば部屋に閉じこもってばかりいるより、人と交わり何か社会的なつながりを保てるようなことをやるのは悪いことではない、そのくらいに受け止めていた。

合唱を曲がりなりに続けて5年近くなるが、振り返ってみて降圧剤のための医者通いは続いているものの、その血圧もきわめて安定しているし、インフルエンザ、風邪にもかからず、おおむね体調は良好なまま暮らしてきた。

普段健康で体調がよいと、それが当たり前のように感じていて、それが何に依るのかあまり意識しないものだ。自分の体調管理がよいなどと自負してみるが、実際は家人のバランスのとれた食事作りや医者の健康管理のお陰であることはつい忘れがちだ。

この夏、1ヶ月間ほど家を離れ、札幌に滞在した。今夏の札幌は結構蒸し暑く、天気も変わりやすかったので、外出が少なかった。外出する時は外食になりがち。というより、外食のための外出。当然合唱も皆無。近隣の迷惑を考えて、鼻歌程度の練習しかできない。その結果、2週間ほど経つと、体が重く、腰もだるい。体重計にのると約2㎏増加。人生で最重量になっていた。医者から食事による体重管理と、運動を言い渡されていて、北海道ではせっせと歩いて2㎏減らします、と見得を切ってきたのに、このざまだ。

家に帰ってから2週間くらい経った頃から、腰の重さもとれ、ベルトの穴の位置も元に戻り、体も軽くなってきた。外食が無くなり、もとの合唱生活に戻ったせいであろう。

合唱指導の先生から、発声に絡む呼吸器の仕組みを記した欧文資料が配布され、それを訳しながら学んだことの一つは、平常時の静かな呼吸と、運動したり、歌う際の大きな呼吸とでは呼吸器を形成する様々な筋肉の使い方が異なるということだ。
こと呼吸器に関しては、歌うことは運動に匹敵する効用があると言うことだろう。

今年中学に入学した孫が、本来合唱をやりたがっていたが、部活に合唱部がないので、その代わりとして吹奏楽部を選んだ。小学生の時は風邪で休むことが多く、環境ががらりと変わる中学生活を心配したものだが、学校を一度も休むこともなく、ブラスバンドの練習にも欠かさず参加している。言うまでもないことだが、吹奏楽器も歌うことと同様の呼吸器の使い方によるので、健康維持に役だっているのだろう。

合唱の効能はいろいろあるだろうが、筆者にとっては呼吸器を鍛えて健康維持に役立つ簡便な方法だ。

運動が苦手な方、運動の機会のない方、健康のために合唱をしませんか。

2013年9月23日月曜日

ニッケルハルパ コンサート


今回は合唱とは無関係な話題。 宣伝を一つ。

来る10月6日(日)午後2時から、所有するミニホールでニッケルハルパのホームコンサートを開く。
ニッケルハルパといっても、皆さんの多くはご存じないかもしれない。かくいう筆者もこの度初めて知った。スウェーデンの民族楽器で、紙幣にも描かれているという。キーを押さえて弓で弾く有鍵フィドルといったところだ。この夏、偶然札幌の地下道で京都から来たグループによる演奏に出くわした。あまり大きな音は出なく、うちのホールには向いていそうだ。

奏者は浦和(さいたま市)在住の鎌倉和子さん。鎌倉さんはニッケルハルパの普及とスウェーデン文化の紹介のために、「日本ニッケルハルパ協会」を興し、会長を努めておられる。今回はご主人がアコーデオンを担当される。トークをまじえた2時間ほどの公演となる予定。詳細は「響き音楽院ホール」で検索してください。

ホールは住居をかねて8年ほど前に建てたものだが、天井を高く設計したので、響きはよい、と評判だ。定員は40名ほどだが、50名も可能。ピアノは少し古いが、Steinway & Sons 製。本格的な録音設備はないものの、コンデンサーマイクを使った携帯録音機でも、ライブ録音は思いの外良い。と、ここまでは手前味噌。

当初は年4,5回ほどコンサートを開くつもりであったが、集客に苦労するので、つい間延びしがち。少しでも集客に役立てばと、東松山市の人気のケーキ店「モン・プレジール」のケーキと手注ぎのコーヒーを出している。元々営利目的で作ったわけでないのであるが、毎回赤字。老後の道楽と割り切っている。

このホールに関して、夢はここを拠点とした合唱アンサンブルを作ること。それにはやや力不足か。さらに年齢が・・・。同志を募ります。
 

2013年6月5日水曜日

歌詞の持つ意味

 言うまでもないことだが、おなじ音楽でも器楽曲と声楽曲との本質的な違いは、後者では旋律に言葉がまといついていることである。しかも、言葉が持つ子音や母音の響きが個々の音に彩りを与え、言葉の意味が旋律に色合いを添える。
 優れた作曲者や、作詞者はこれらのことを意識的に、また時に無意識的にこなしているのだろう。他方、声楽の演奏者は歌唱の中で言葉の響きを音に調和させ、意味を表現することに苦心する。

 西洋音楽は教会音楽とともに発展してきたが、世俗的な音楽を含め、当初は詩文に音楽が寄り添うものであった。やがて、音楽は言葉から離れ、独立して、新たな形式を求め、音楽の文法に則って作られるようになる。言葉は背景に追いやられ、意味は作曲者の想念の中に身を潜める。器楽曲の隆盛の時代を迎える。
 しかし人は歌うことを止めなかった。ヒトには言葉により物事を表象し、表現する基本的欲求があるからである。言葉による点では声楽は文学に重なる。違いは前者が楽音と結びつく点である。

 われわれアマチュアの合唱愛好者は歌う中で様々な言葉にであう。事前作業として、当然言葉の意味、歌詞が作られた背景、作曲者がその詩文と出会った経緯、外国語の歌なら、発音と語の意味、歌詞全体の意味を調べ、詩と音楽の幸福な出会いを確認する。訳詞の場合には、時々原詩とは全く曲想が違って見えるようなこともあって、興味深い。こうした下調べも歌う楽しみに入る。

 言葉と音楽が常に蜜月関係にあるとは限らない。旋律や和声、リズムが優先され、言葉が貶められているように見える曲もあれば、逆に、旋律に言葉を無理に押し込んだとしか思えない曲もまれにある。
 
 願わくは、音楽が言葉を引き込んでいるような曲、または言葉が音楽を紡ぎ出しているような曲を歌いたいものだ。



2013年1月28日月曜日

合唱団と指導者・指揮者の関係

  大方の合唱団は指導者・指揮者と良好な関係を保ち、楽しく合唱練習に励んでおられるであろう。しかし、一部には指導者との間に軋轢が生じたり、あるいは様々な不満を抱え、鬱屈したまま次第に団員の足が遠のくような合唱団もあるかもしれない。そこまで重症でなくとも、選曲や練習方法のマンネリ化から活動が停滞している合唱団もあるかもしれない。
 筆者が所属する合唱団で最近指揮者の交替があった。団員の一部には指揮者への不満があったようだが、おおかたは指揮者に同情的であったし、積極的に支持する声もあった。にもかかわらず苦渋の選択として指揮者の交替に踏み切りざるを得なかったのは、筆者の理解するところでは、つまるところ10年近く勤めた指揮者への「飽き」であったように思われる。理由は様々であろうが、次第に足が遠のく人も目立ってきていた。新しいメンバーが加わればいい刺激となり、組織も活性化するのだが、それもなく、むしろ比較的最近加わった人が離れていったこともこたえた。新しいメンバーが加わらないのだから、当然のことながら合唱団構成メンバーの平均年齢が上がる一方で、合唱レベルは現状維持が精一杯、むしろ後退すら見られるようになって来ていた。合唱団のじり貧どころか5年先、10年先の存続も危ぶまれた。特に創立以来のメンバーは事態を深刻に受け止め、町唯一のこの混声合唱団の灯火をなんとか守りたいと考えた。出した結論は団をいったん解散して、団の名称や指揮者、練習日を変え、新規に団員を募り、再出発することだった。前指揮者も理解を示し、足が遠のいていた団員も戻り、新たに数名が加わり、新しい指揮者のもと再スタートしたが、今のところは上々の滑り出しである。
 これら一連のプロセスに立ち会い、一団員として考えたことは、同好会的合唱団にも指導者・指揮者との間に「契約」と「評価」が必要だということである。これらは指揮者に対して厳しい態度をとると映るかもしれないが、契約を結ぶに当たって合唱団として目的や自己コンセプトを明確にする必要があるし、そのためには団としての自己評価が前提となる。大学においては学生による授業評価・アンケートが制度化されてすでに20年あまりになるが、学生に対して自己評価も合わせて求めているのが一般的である。
 評価は契約更新のためにも必要であろうが、指導・練習の改善に役立てるのが本来の目的で、一方的に指導者を評定するものではない。評価は双方的であるべきだし、また必ず自己評価を含むものであるべきだ。通常こうしたたぐいの評価は団員によるアンケートによることになるであろうが、決して指導者への不満のはけ口となってはならない。そのためには評価方法、評価項目の設定が重要となる。日本合唱連盟あたりにひな形を作ってもらえればと思う。もしかすると、筆者だけが知らず、すでにあるのかもしれないし、一部では行われているのかもしれない。
 もちろん全ての合唱団においてこれらが必要であるとはいわない。優れた指導者なら自省的で、団員の反応から指導練習を手直しするであろう。しかし程度の差こそあれ、わが合唱団が抱えた問題を共有する合唱団は少なくないのでは無かろうか。いまは蜜月関係にあっても、時間を経るとともに倦怠期を経て破綻を迎えることになるかもしれない。
 契約の更新と相まって、評価は適度の緊張と刺激を持たらすものでもある。練習が惰性に流れないようにするためにも、制度として「契約」と「評価」を取り入れたいものだ。

2013年1月6日日曜日

暮れのウィーン旅行 

 久しぶりでウィーンに出かけた。孫娘の「ウィーンのクリスマス市を見てみたい」の一言に大人たちが反応し、家族親戚総勢8名のウィーン滞在旅行と相成った。今は便利になったもので、飛行機便やホテルの予約から各種チケットの手配まで、全てインターネットで出来る。電話一つかける必要もない。
 ほぼ十年ぶりのウィーン。すっかり勝手が違うだろうと覚悟して出かけたが、当然のことながら、町の様子は変わらない部分が多く、変化に弱い高齢者は安心した。それでも観光客の多さ、特に、アジア系の人の多さには目を見張った。ほぼ四半世紀前に長期滞在した時にはアジア系はほとんど日本人だけであった。アジアの経済発展ぶりがこんな面にも表れている。
 あちらでは店の営業時間は「閉店法」という法律で規制されているのであるが、以前は土曜日は休日またはせいぜい12時か12時半までの営業、日曜日はもちろん閉店、クリスマスイヴ、クリスマス、大晦日も休業であったものが、今ではイヴや大晦日でも2時、3時まで営業するようになっている。昔ウィーン出身の知人が、欧米社会で最も労働時間が少ない国はオーストリアだ、と自慢げにいっていたのを懐かしく思い出される。
 全く変わらないものの一つに、市内を縦横に走る便利な交通機関の車内放送がある。停留所、停車駅の案内、乗り換え、さらには社会的弱者に席を譲るよう求めるアナウンス。アナウンスの声まで変わらないのだ。
 一枚の切符でバス、地下鉄、市街電車、近郊電車を利用できる便利さは相変わらずだ。到着したのが23日(日)の夕方だったので、月曜から1週間有効となるWochenkarte  (1週間乗車券)€15(約¥1650)を購入。遠出しない限り、これでまるまる1週間乗り放題だ。
 滞在したホテルはウィーン19区にあって、Livinghotelとうたったホテル。部屋にキッチンが付いていて少し長い滞在には助かる。ホテルの両隣が、"Spar"と"Billa"、ウィーンではどこでも見かけるスーパーだ。 ウィーン料理に飽きるとスーパーでおかずを買い、日本から持参した米を炊いて自炊するのも楽しい。
 ウィーン19区というと、いわばウィーンの山の手。実際都心や他の区から見ると少し標高も高く、13区、18区と並んでウィーンの富裕層が大勢住む閑静な住宅街。ホイリゲで名高いグリンツィングGrinzingもこの区にある。38番トラム終点から38Aのバスに乗り継ぎ、いわゆるウィーンの森を成す山の一つ、カーレンベルクには簡単にいける。昔「ウィーン何でも十傑」という週刊誌の記事で、「ウィーン人が最も住みたい街ベストテン」にこの19区からベストワンを始めいくつも選ばれていた。
 ホテルは都心まで市街電車で20分ほど。地図で見ると不便そうに見えるが、バスで10分足らずで地下鉄U4の起点ハイリゲンシュタットHeiligenstadtに。ハイリゲンシュタットは引っ越し魔でもあったベートーヴェン縁の街である。地下鉄U4を利用すれば、都心のどこでも簡単にアクセスできる。
 寒い季節に出かけたので、屋外の行動はあきらめ、オペラやコンサートのチケットを手配しておいた。孫たちが退屈しないように、子供でも楽しめるプログラムを考慮して、フォルクスオーパーの「ヘンゼルとグレーテル」と国立歌劇場のバレー「くるみ割り人形」、楽友協会ブラームスホールでは、日本でも馴染みの「ウィーン・リング・アンサンブル」のジルベスター・コンサートで一足早いミニ ニューイヤー・コンサート、さらには「フィガロの結婚」を鑑賞。さすがに孫たちは話の込み入った「フィガロ」は眠かったらしい。我が家で人気のウィーンフィルコンサートマスター ライナー・キュッヒルさんが、「くるみ割り」でもコンサートマスターを務め、リング・アンサンブルではヴァイオリンの他、大太鼓をも担当で孫も大喜び。キュッヒルさんはおそらく世界で最も忙しいコンサートマスターではなかろうか。リング・アンサンブルのコンサートがあった30日は昼間の11時からウィーンフィルのニューイヤーコンサートの期日前公演でコンサートマスターを務めている。現在62才の彼は21才でウィーンフィルの第2コンサートマスターに就任。ヘッツル氏が山で遭難死してからは第1コンサートマスターに。1昨年には日本政府から叙勲も受けている。
 帰国前日の日曜日には、街のシンボル聖シュテファン大寺院St.Stephansdomの日曜ミサに参列。といっても非キリスト教徒なので、後列でそっと見守るというのが実態。このような宗教行事もウィーンの月間プログラムに掲載されているので、ミサにおける音楽を鑑賞する目的で参列できる。
 肝心のウィーンのクリスマス市の方だが、到着が23日夕方であったので、翌24日のイヴに市庁舎前広場の市と26日にシェンーブルン宮殿の市に出かけた。豊富なものに囲まれて育った若い世代にはクリスマス市もさほど興奮を呼ぶものではなさそうで、Glühwein(赤ワインに甘味とシナモンを加えて温めた甘酒)を飲んで早々と退散。この度は暖冬で、カーレンベルクにも全く雪が無く、暖冬で、東京よりも暖かいほど。この季節には珍しく、後半は快晴に恵まれ、皆満足して元旦に帰国。