2015年10月27日火曜日

Lotosblume は「蓮」か、はたまた「睡蓮」か  ー シューマンの「蓮の花」を歌う


所属する合唱団で、ハイネの詩によるシューマンの「蓮の花」の練習があった。
この曲はもとより合唱曲ではないが、増田順平先生が合唱曲に編曲したもの。歌詞はしのかおるさんによる。

さて、原詩のLotosblumeだが、大半の独和辞典には「蓮」とある。しかし、かつて「木村・相良独和辞典」として大勢の学徒に親しまれた博友社の辞書では、Lotosblumeに「睡蓮」の日本語訳をあてがっている。この辞書の後に出版された比較的新しい辞書ではいずれも「蓮」としている。それによったのであろう、ネット上のこの詩の日本語訳も大半が「蓮」としている。
しかし中に一つ、以前は「蓮」としていたものを訂正と断って「睡蓮」に書き換えたものがある。その理由はつまびらかではないが、もしかすると原詩の中の第2連「月はその光で蓮を目覚めさせ、蓮はにっこりとしてヴェールを取って月にその慎ましい顔を見せる」から、夜咲く「睡蓮」を考えたのかもしれない。
「蓮」は日中に花開くものであろうし、「睡蓮」にしても昼間咲くものが大半だが、北東アフリカを原産とする和名「夜咲き睡蓮」別名「エジプト睡蓮」は夜半に白い花を開くという。ハイネはこの夜咲き睡蓮を歌ったのであろうか。

ほぼ半世紀ほど前になろうか、ほんの短い期間教えを受けたことがあるR. シンツィンガァ先生が編んだ『ドイツ詩集』(第三書房刊)の中で、先生は「蓮は夜明けに咲くが、ハイネは多分実際の蓮は見たことが無く、夕暮れに花開くと思っていたのだろう。ロマン派の詩人には現実のことはそれほど意味をなさないのだ」(69-70頁)と書いている。

先に触れたように、ドイツ語Lotosblumeの訳語として独和辞典は二派に分かれるのだが、この場合学名をもとにすれば混乱を避けられるであろう。
ドイツの百科事典やDudenなどの辞書ではLotosblumeの学名をNelumboとしている。日本語の「蓮」を百科事典で調べると同じ学名が挙げられている。一方、「睡蓮」を意味するドイツ語Seerose の学名はNymphaea。学名をもとにすれば、ドイツ語のLotosblumeは「蓮」とすることに疑いがない。やはり、ハイネの詩的誤解なのだろうか。

別の可能性として、ハイネは夜咲きスイレン(学名Nymphaea lotus)を知っていて、Lotosblume を広義に捉えていたのかもしれない。
百科事典によればSeerose の範疇にLotosblume も入るぐらいだから、異国的な花にはSeeroseよりもLotosblumeあるいはLotus とギリシア語由来の語をあてがったこともかんがえられる。

シューマンの歌曲を合唱曲に編曲して歌うこの度の試み、日本語の詩も良いのか、歌って楽しいし、聴いても良い曲に仕上がりそうだ。再来年のステージが楽しみだ。
                                                                                 2015-10-27

2015年9月23日水曜日

O Holy Night ー さやかに星はきらめき



暮れ恒例の「第九」はホール改修のため今年は取りやめとなり、代わりにクリスマス曲を中心に子どもたちと一緒のステージを組むことになった。

合唱団員の大半が非クリスチャンであることを考慮したのであろうか、音楽監督はカワイ出版の「リーダーシャッツ クリスマス曲集」の中からすべて世俗的なクリスマス曲を選んだ。
その1曲が標題の O Holy Night 「さやかに星はきらめき」。

筆者自身はこの曲のことを、ああ、聴いたことがある、という程度であったが、あらためてネットで調べてみると、キリスト教徒はクリスマスの折に教会でよく歌っているようだし、一般の人にも「きよしこの夜」や「ジングルベル」と並んで親しまれてきた曲であることを知った。
YouTube にあたってみると、実に大勢のオペラ歌手やポップシンガーたちが様々な編曲で歌っている。その中から録音状態が良く、気に入った14,5ヴァージョンをCDに録音して楽しんでいる。

この曲は教会の礼拝とは関係なく、世俗的な行事やクリスマスの喜びを盛り上げるために歌われるもののようだが、日本キリスト教団編の「讃美歌第二編」にも入っている。
今回歌うのは、信長貴富編曲、海野洋司訳詞のもの。「讃美歌集」所収の曲は、同様に混声四部ではあるけれども、訳詞は由木康、編曲は「讃美歌編集委員会」によるもの。

ところで、この曲はフランス生まれで、原題はCantique de Noël 「クリスマスの歌」だが、冒頭歌い出しの言葉から”Minuit, chrétiens"ともいう。もともとフランスの詩人プラシド・カポー Placide Cappeau(1808 - 1877) が1843年、ロクモールにある教会オルガンの修復を祝うイベントのため作詞、ほどなくして、バレー曲「ジゼル」で知られる作曲家アドルフ・アダンAdolphe Adam (1803 - 1856)がこの詞に曲を付けた。
この曲が世界に広まるのはボストン生まれのジョン・サリバン・ドワイト John Sullivan Dwight(1813 - 1893)の英訳詞 "O Holy Night"によるところが大きい。訳詞とはいえ、ドワイトはかなり自由に訳している。
YouTube で聴くと、オペラ歌手は結構原語で歌っているが、圧倒的に英語によるものが多い。

詞の内容はイエスキリストの降誕を祝うクリスマス讃歌だが、なんといってもその旋律の親しみやすさと美しさが人気を集めるのだろう。歌手たちが気持ちよく、伸びやかに歌っていることに惹かれる。
YouTube ではドミンゴとパヴァロッティの二重唱も聞きものだが、今をときめくペルー出身のテノール、 フアン・ディエゴ・フローレスがよくその美しい高音を聞かしてくれる。彼はまたエリナ・ガランチャともデュエットしている。マライア・キアリーも人気があるが、アクセスが最も多いのはケルティック・ウーマンの Holy Night。サラ・ブライトマンも歌っているが、残念ながら録音状態が良くない。スタジオ録音のものがあれば聴きたいのだが。少年合唱団リベラ Libera や ケンブリッジのKings College合唱団が歌うO Holy Night が心地よい。イギリス版スター誕生で一躍時の人になったスーザン・ボイルも歌っているが、音作りに手が入りすぎ。
以上のもののに比べて、われわれが歌う信長版「さやかに星はきらめき」は、この曲がもつ伸びやかさにやや欠けている気がする。これは時代が求める今風の編曲かもしれないが。


2015年9月20日日曜日

 安倍政権にレッドカードを! ー「安全保障」法案成立  



参議院に一縷の望みを抱いたが、それもむなしく、とうとう違憲安保法案が成立した。
成立したとはいえ、国会審議における政府説明のでたらめさ、強引な国会運営と強行採決を考えると、この法案は正当性を欠いたものと言わざるを得ない。
何より憲法違反であること、さらに、戦後70年日本が平和国家として積み上げてきた外交、防衛政策を大きく転換させるにもかかわらず、各種世論調査の結果や60年安保以上の反対の声を無視し、強引に成立を図った事に見られるように、この政権が民主主義を蔑ろにしていることが正当性を損なっている。

安倍政権がもたらしたものは平和国家としての日本ブランドの毀損だけに留まらない。
法案が成立した直後の報道によれば、日本の国債の評価が一段階引き下げられ、韓国、中国よりも低くなった。国の借金が1千兆円を超え、財政破綻の危惧が高まってきたことを物語っている。この度の法案成立により、軍事費が増加することは必至で、そのことがますます財政を苦しくすることが明らかであるからだ。

前のブログにも書いたが、「集団的自衛権行使容認」に伴う関連「安保法案」の狙いは、端的に言って、日米軍事同盟の強化である。
安倍首相がいう抑止力云々はこれをもとにしている。抑止力が働くのは弱小国に対してであり、大国に対しては有効とはいえない。むしろ軍拡競争を招く。いわゆるミリタリーバランスも際限のない軍拡競争を引き起こす。
少子高齢化著しく、借金大国の日本では財政的に軍拡競争に耐えられない。

国際環境の変化なる言葉もこの度の法案趣旨説明で使われた言葉だが、台頭する中国を念頭に置いたものであろう。
中国を仮想敵国にする日米軍事同盟強化は東アジアの緊張を高めるだけである。
軍拡競争に耐えられなくなり崩壊した旧ソ連の共産党独裁体制の前例に倣って、日米結託して中国に軍拡競争を仕掛けるつもりでは無かろうが。

安倍政権下で起こったことでわれわれが看過できないことの一つに、メディアの劣化である。
一部のメディアが安倍政権を支えたと言っても過言ではない。
それは名指しするなら、読売新聞、産経新聞、同系列のテレビである日テレ、フジテレビであり、さらにはNHKも一大禍根を残した。これらのメディアはジャーナリズムの精神を忘れたかのような報道振りであった。
NHKの信頼回復は容易ではない。新聞は購読取りやめで市民は対抗できるが、受信料支払い拒否はそう簡単ではないだけに、税金ではなく、国民各世帯が支払う受信料で成り立つNHKの罪は重い。
しかしこれらの有力メディアの存在にもかかわらず、世論調査の結果を見ると国民の大半は健全な判断をしていたようだ。

安倍政権だけのせいには出来ないかもしれないが、与党自公の劣化も著しいことが明らかとなった。
かつての自民党はリベラル勢力が主導していたが、今は安倍晋三に集まった極右勢力に乗っ取られた風に見える。今後、党の中のリベラルバネが働かない限り、遠からず政権を失うであろう。
また公明党は結党以来の危機を迎えるだろう。安倍政権に加担したことで、得るよりも失うことの方が大きいはずだ。

過去3年の安倍政権の歩みを振り返ると、彼が言う「戦後レジュームからの脱却」なるものが見えてくる。
日本版NSCの創設、特定秘密保護法の制定、防衛装備移転三原則、ようするに武器をより容易に輸出できるようにすること、道徳教育をはじめ、より国家主義的な教育への方向付け、派遣労働など、労働者保護の抑制、そしてこの度の安保法案である。
このように並べると、これらは現行憲法の基本精神から乖離した性格を持つことがよく見える。それはそうだ、安倍首相は憲法「改正」の意図を隠そうともしないのだから。
しかし、逆にこの度のことで、憲法改正がより困難になったように見える。少なくとも安倍政権のもとでは出来ないであろう。

さて安保法案の成立をうけて、今後何が起こるだろうか。
近未来あり得ることとして、来年早々にも自衛隊が、中東やアフリカに派遣されるであろう。
今シリアなどからの難民が大勢ヨーロッパに押し寄せている。難民問題は今や待ったなしの状況だ。
この難民発生の原因を取り除くためには、もはや軍事的にシリアの内戦を停止させることと、IS 国(イスラム国)を制圧するほか解決法が見いだせない。今は空爆のみだが、地上軍も投入されるかもしれない。
いずれにしても、同盟国日本はアメリカなどの派遣要請を断れないであろう。アフリカもしかり。

普通に考えて、内戦下に自衛隊が派遣されれば、隊員に犠牲者は出るだろう。
もしかすると犠牲隊員の家族が政府を相手取って訴訟を起こすかもしれない。
それは安保法案の合憲性が問われる訴訟になるはずだ。

安倍一派に乗っ取られた自民党は、病気で安倍首相が退陣しない限り、少なくとも来年の参議院選挙までは政権を維持するだろう。
選挙を有利に運ぶためにも安倍政権は、今後安保法案など無かったかのごとく、一転景気回復をテーマに掲げるだろう。その中で最大の問題は消費税10%への増税問題だ。
安倍首相は再度先送りしたいのであろうが、先にも触れたように、財政再建が待ったなしの中、財務省の抵抗を抑えて先送りできるかどうかが問われる。

60年安保以来最大となった市民運動が今後どのように展開するのか、注目したい。
いわゆる党派性を超えた大きな市民運動はこれまで経験したことがない。これが一過性のものなのか、それともヨーロッパのように、議会も政府も無視できない運動として定着していくのか、それはやがて来年の参議院選挙で試されるであろう。
今のままの自公体制が来年以降も続くようであれば、日本はいよいよおかしな方へ向かう。
市民運動の側も知恵を絞って持続したものにする必要がある。そのためにはまず党派性を排除することだ。それには最大公約数的なスローガンを掲げることが出来るかどうか。
当面は安保法案に賛成する議員(野党も含む)の落選運動だろう。
若者たちに期待したい。

                                    2015-9-20

2015年7月16日木曜日

「安保法制」採決強行ー民主主義の否定、法治国家への侮辱

強権的で、民意に侮蔑的に向き合い、現行憲法を侮る姿勢を続けてきた安倍政権なら十分予想されたことではあるが、昨夜(7月15日)衆議院特別委員会で「安保法制」法案が強行採決された。
これにより衆議院本会議を経て参議院に送られ、仮に参議院で否決されたとしても、「60日ルール」で成立する運びとなるだろう。

各種世論調査ではこの法案に反対する人が過半数を超え、憲法の専門家のほとんどが憲法違反であると判断している中での強行突破。
民主主義を否定し、憲法に基づく法治を足蹴りにした。

この度の法案は先の集団的自衛権行使容認の閣議決定にさかのぼる。この事については昨年6月のブログ(2014年6月17日)に書いたので繰り返さない。

アメリカ合衆国大統領就任式では、合衆国憲法遵守を誓約する儀式を行う。
日本の憲法でも第99条で、天皇をはじめ、国務大臣(首相も)、裁判官、国会議員、公務員は憲法を尊重し、擁護する義務を負う、とうたっている。
現行憲法を尊重遵守する気がないのであれば、国会議員を辞任するか、少なくとも国務大臣就任は辞退すべきだ。
安倍首相は現行憲法に否定的であることを隠そうともしない。

安倍首相の祖父岸信介も、改憲に取り組んではたせなかった。
その遺志を継ぐかのように安倍もまた改憲をもくろんでいる。
遺志を継ぐと言えば美談に映るが、祖父岸もまた民意を無視して、1960年日米安全保障条約の国会批准を強行した。歴史は繰り返すだ。
奇しくも、この度の安保法制は日米安保条約の中身を根本的に変える意味を持つ。

中国など日本周辺のアジアの国から見れば、これまでの日米安全保障条約は日本の軍事大国化を防ぐものと見えただろう。それは日本と戦ったアメリカの望むものでもあった。
しかしアメリカの相対的な弱体化の中で、「世界の警察官」としての役割を日本にも分担してもらいたい、というのが、アメリカの本音となってきた。
日本としても、中国の経済面だけでなく、軍事面でも大国化してきた中で、日本の安全保障を高めるためにも、より一層アメリカとの軍事同盟関係を強める必要があると外交当局をはじめ、安倍政権は判断しているのであろう。
筆者はこの判断をいわゆる戸締まり論として理解は出来るが、支持しない。

アメリカとの軍事同盟強化は一見抑止力の強化と映るかもしれない。しかし中国のような大国には抑止効果より、中国をより一層軍事大国化に走らせ、あげくは軍拡競争につながる。民主主義国家日本の財政はこれに耐えられない。
国家関係が複雑に入り組んでいる中では国家間の戦争の危惧は後退しているが、外交関係が緊張すれば、やがて軍事的な緊張につながる。

安倍首相は中国を仮想敵国と見なしているのは明らかだ。中国も安倍政権が進める一連の安保政策に警戒感を抱いているだろう。
戦略的互恵関係の言葉がうつろに響く。
敵意には敵意しか戻ってこない。これは互いに破滅への道だ。

安倍政権の一連の政治を見ていると、ヒットラー・ナチスドイツがどういうものであったのか、理解を容易にする。歴史から学ぶのではなく、逆に現代から歴史を学ぶことが出来るというわけだ。

民主党政権の未熟さと体たらくから、いわゆる決められる政治を求めた結果、安倍政権が生まれた。この政権は戦後70年に及ぶ保守政治を根幹から変える、まるでクーデタのような性格を帯びている。
安倍一派に自民党が乗っ取られ、政権が乗っ取られたように見えるのは筆者だけではあるまい。

                                                                        2015年7月16日

2015年4月22日水曜日

平和を祈念して『夕焼け』を歌う


 所属する合唱団で、今夏のステージで歌う曲の一つに高田敏子作詞、信長貴富作曲の『夕焼け』(カワイ出版)を歌うことになった。合唱指導指揮の先生が、戦後70年の平和な歩みを蔑ろにするような空気への危機感から選んだ、という趣旨の発言をされた。この趣旨に完全に同意したいと思う。
 この曲はもともと女性合唱曲として作曲されたが、合唱団京都エコーの委嘱で混声合唱曲に編曲されたと奥付にある。わが合唱団も混声で歌う。
 信長氏自身のコメントにあるように、この曲は平和への祈念を合唱を通して共有しようという歌で、声高に反戦を訴えるものではないが、一つの反戦歌と理解して良いだろう。

 合唱経験の浅い筆者には反戦合唱曲、プロテストソングの合唱曲といってもあまり思い浮かばない。すぐに思いつくのは、金井直作詞、岩河三郎作曲の『木琴』くらいだ。この曲は一頃はNHKの合唱コンクールの自由曲に選ばれることも多く、また若い世代では校内合唱コンクールで歌った方も多いことはYouTubeでも伺える。
 中学校に勤務した経験を持つ連れ合いに聞いたところ、校内合唱コンクールでこの曲を涙を流しながら懸命に歌った生徒たちの姿を今も思い出すという。
 この詩は中学国語の教科書にも載っていたし、道徳の教材にもなっていたともいう。今の安倍政権のもとではこのような詩ですら学校教育から排除されかねない。

 話は一転するが、安倍政権による「集団的自衛権」についての強引な憲法解釈の変更以後の「安全保障」法制が、国民不在のまま、と言うより、矢継ぎ早に繰り出される諸法制で国民を目くらましにしているとしか見えないやり方で進んでいる。
 前にもこのブログで書いたが、「特定秘密保護法」にしろ「集団的自衛権行使容認」にしろ、アメリカのブッシュ(父)大統領時代の湾岸戦争での苦い経験が背景にある。多額の戦費をアメリカに供与したにもかかわらず、人的貢献の求めに応じなかったことでアメリカの不興を買った。特に外務官僚にそれがトラウマとなったのだろう。人的貢献とは端的に言えば自衛隊員の命を差し出すことになりかねない事だ。
 すでに書いたのでここで繰り返さないが、東アジアの情勢を鑑みて、日米の軍事同盟をより確かなものにしたい、と言うのが外務官僚の安全保障政策なのだろう。自衛隊の海外派遣目的の一つに邦人救助がとってつけたように付け加えられたが、自衛隊の元幹部からもこれに強い疑問が投げかけられる始末だ。
 戦争中の他国軍を「後方支援」するための「国際平和支援法」なるものも、想定する事態が机上の空論にもとづく。外務官僚や政権幹部、政権与党の諸氏の貧しい想像力を少し補うことができるスペイン映画を紹介したい。

 2012年制作の映画『インベーダー・ミッション』はブッシュ(子)大統領のイラク戦争下、主人公の軍医は友人の軍医とともにスペイン政府によるアメリカ軍後方支援としてイラクに派遣される。
 負傷したイラク女性をアメリカ軍護衛で病院へ搬送の途中、地雷攻撃に合い、さらにゲリラの襲撃から民家に逃げ込む。その際恐怖と混乱から二人はその民家の親子を殺害してしまう。
 この一連の出来事は恐怖と怪我のせいで、主人公は記憶を失ったまま帰国する。怪我から回復するにつれ、その時の出来事が断片的に思い出すようになる。
 そんな折、政府当局からイラクで経験したことの秘密を守るよう署名を求められる。秘密を漏らせば国家反逆罪に問われ服役することになる、と脅される。秘密を守れば職務に復帰でき、怪我の保障も得られると説得される。
 断片的だった記憶をつなぎ合わすため、一緒に行動していた友人と連絡を取ろうとするが、なぜかその友人はそれに応えようとしない。実は瀕死の重傷を負った主人公を救ったその友人は、戦争犯罪となり得るある出来事の一部始終を密かに携帯に録画していたのだ。
 その出来事とは、二人が民家に逃げ込んだ後、ゲリラ攻撃の報復として、二人の軍医の護衛にあたっていたアメリカ兵が集落の住民全員を銃殺、殺さないでとつぶやく幼い女の子まで射殺した事件だった。
 二人は当局によって監視され、映像の存在を当局の知るところとなり、追跡を受ける中、友人は殺され、友人の携帯を手にした主人公は逃げ延びる。当局に捕まる直前に携帯映像を放送メディアに送った主人公は刑務所に収監されるところで幕を閉じる。

 あえてこの映画の詳細を記したのは、この映画が集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法などの安全保障政策と重なる事態が描かれているからだ。今進められている『安全保障』法制が成立すれば近未来に起きうる事態がリアルに見られるのだ。
 
 この映画はWOWOWが3月に放映したものを筆者は観たのだが、時期的にタイムリーな放映であった。WOWOW番組編成者の心意気が感じられる。
                                 2015年4月22日    

2015年4月17日金曜日

フェルマータ は延声記号?



 合唱経験の浅い高齢の筆者は、楽典の知識も中学生の頃のまま。覚えるより忘れる方がはるかに早く、音楽記号・標語はそのたびに調べ直しを繰り返す。
それでもフェルマータ 記号くらいは知っていたつもりであった。

 ところが、バッハ『マタイ受難曲』の中のコラールO,Haupt voll Blut und Wunden (おお、こうべは血にまみれ)を事前練習をしていて、フェルマータ記号で伸ばすと、どうも奇妙に感じられた。コンマで区切られているところは伸ばしても、そんなものかなと違和感はそれほどないのだが、コンマで区切られていないところで伸ばすのは、言葉のつながりから考えても釈然としない。

 指導者の先生による練習時、フェルマータのところでは、指揮を止めずそのままのテンポでお振りなる。当然、フェルマータは伸ばすものと考えていたのは筆者だけではなく、乱れたまま歌い通した。一通り歌い終えた後、指導の先生はバロックの時代ではフェルマータは区切りを表すのに用いられた、と説明して下さったので疑問は氷解。
 
 あらためて手元の『クラシック音楽事典』(平凡社刊)を調べてみると、「音符または休符の長さを引き延ばすこと」としか書いていない。小学館の『伊和中辞典』でfermata の項目をひくと、音楽記号としての意味はやはり、延声記号としか出ていない。ついでながら、イタリア語では通常、この記号はcorona というとのこと。
 他の音楽事典にあたってみようとしたものの、音楽好きの孫が持って行ってしまったので、手元には日本合唱指揮者協会編の『合唱ハンドブック』(カワイ出版)くらいしかない。あまり期待せずに調べてみると、なんとちゃんと載っているではないか。先の音楽事典とは打って変わって、小粒な事典なのに、フェルマータについては次のように説明している。

 (1)臨時に拍の進行を停止させ、音や休符を延長する記号。
 (2)終止記号として楽曲の終わりを示し、複縦線上などにおかれる。
 (3)コラールで歌詞の段落を示すもの。
 
 この度は(3)の説明がそのまま当てはまる。
 
 念のため、Wikipediaの日本語版で「フェルマータ」の項にあたってみると、こちらではこの記号の歴史を含め、かなり詳細な記述がなされている。バロック以前のフェルマータ記号については、近年の研究による、とあり、まだ論議の余地がありそうだ。少なくとも中学生の理解が自明のものではないことがわかる。

 たかがフェルマータという無かれ、一度立ち止まってこの記号についてとくと調べてみる必要がありそうだ。
 そういえば、イタリア語のフェルマータとは英語の stop 、「立ち止まること」の意味。イタリアの街を歩くとよくfermataの語に出会う。何のことはない、バス停の意味。
                                              2015年4月17日