2013年10月31日木曜日

西域に思いを馳せて


数年前までならウイグルといっても、あまりぴんと来ない方も多かったに違いない。
「中国新疆ウイグル自治区」と聞いて、初めて中国の西域に住む少数民族のことだと思い浮かべる人もいるだろうか。

新疆ウイグル自治区は日本の国土面積のおよそ4倍以上。この広大な自治区は多民族からなり、今では最も多いのは漢民族で、40%以上を占める。次に多いのがウイグル族で、1990年の人口調査に依れば、720万人あまり。

毛沢東率いる共産党が中華人民共和国を建国した1949年頃は、漢民族はまだ数十万人ほどしか住んでいなかった。当時は70%以上がウイグル族。漢族は10%程度。つまり、建国後、大規模な移民政策のもと、大勢の漢民族が移り住んだのである。
「新疆」という用語そのものが、この地域が中国の新しい領土に組み込まれてことを物語っている。

「ウイグル」という呼称は古い文献にもあると聞いているが、この呼称が使われるようになったのは比較的新しいことのようだ(『世界民族事典』弘文堂発行、「ウイグル」の項)。
西方からやって来たチュルク語系遊牧集団がオアシスに定住するようになり、やがてイスラム文化を受け入れ、農業や交易を営んできた。

この地域は18世紀半ばに清朝によって征服され、漢民族によって支配されてきたが、その間、「カシュガル人」、「トルファン人」、「ホタン人」というオアシスの民は、言語的に(チュルク語系と言うより広義のトルコ語といった方が解りよいかもしれない)、ムスリムとして宗教的・文化的に、ウイグル族という統一的な民族アイデンティティを持つようになっていった。

清朝体制下では、地域内に住む漢族はまだきわめて少数に留まっていたし、清朝体制はウイグルに対してまだそれほど抑圧的ではなかった。しかし清朝末期になると次第にウイグルとしての民族意識が高まり、独立を求める動きが活発になる。一時は「東トルキスタン国」を名乗ったこともある。

1955年に「新疆ウイグル自治区」が成立。「自治区」とは名ばかりで、実態は北京政府中央から派遣される漢族高官が統治する。
中国政府が言う「西部開発」の先兵となったのは大半が漢族からなる200万人規模の「新疆生産建設兵団」という巨大な組織。西部開発と国境警備にあたる。
ウイグル自治区は広大な砂漠を抱えるが、チベット同様、石油、天然ガスをはじめ、豊かな鉱物資源に恵まれる。これら資源開発に従事するのは大半が漢族。原油・ガスパイプラインは西から東の方向に伸び、自動車燃料価格は中国東部よりもウイグル地区の方が高いという。

政府が言う「西部開発」はまず道路網整備と鉄道建設にはじまるが、この地域に暮らすウイグル族をはじめとする少数民族にとって、それらの交通網整備は漢族による収奪のための流通手段としか映らない。
開発に伴う雇用は新たにやってきた漢族に振り分けられ、ウイグル族などの失業率は高い。

このように見てくるだけで容易に理解できるように、ウイグル族の漢民族に対する感情はきわめて悪い。
それに拍車をかけるのは近年強める一種の同化政策。学校における言語教育(初等教育から中国語による授業)や反イスラム色の強い宗教弾圧。
ほとんどのウイグル人は、不可能と解りつつも独立したいと考えているだろう。

単発的にウイグル人小集団が過激な行動に出ることを捉えて、中国政府は”ウイグル人テロリスト”を誇大に宣伝する。9.11後、アメリカ同様、中国政府もイスラム過激派のテロ組織と戦っているというわけだ。

2009年7月に自治区首都ウルムチで起きた争乱も、テロリストなるものが引き起こしたのではなく、もとは請願デモであったものが、自治区トップの王楽泉が挑発して、結果として大きな騒動に発展したと言われている。この争乱では主に漢族が200人近く死んだと発表されているが、実際は1500人ものウイグル人が殺されたと言われている。この事件後、「新疆王」と揶揄される経済的にも腐敗した王楽泉は北京に栄転(左遷?)。ウイグル人に対する締め付けは依然緩むことはない。

最近ウイグルから戻ってきた友人の話に依れば、今年6月に起きたピチャン県(トルファン南東)の事件後、ウイグル族に対する差別的な取り締まり強化も手伝って、近いうちに大きなことが起こりそうだという。
胡錦濤、温家宝後の新しい習近平,李克強体制は権力基盤が弱いので、このような体制は抑圧的にならざるを得ないから、ウイグル人は気をつけた方がいい、と伝えた。

その直後、10月28日に北京天安門前広場で車炎上事件が起こった。報道に依れば関係者はピチャン県事件で警察によって殺された遺族だという。

中国政府系メディアが伝えることに依ると、この事件は少数のイスラム過激派のテロリスト集団が組織的・計画的に引き起こしたテロ事件(決まり文句)で、今後ウイグル人は中国のどこにあっても厳しい取り締まりの対象になる、と警告している。
少数の過激派と言いつつ、ウイグル人全体が取り締まりの対象という。ウイグル人は皆テロリストか、その予備軍というのだろうか。

筆者は悪い冗談ながら、漢族中国政府はあの広大な資源豊かな、ウイグル人のいない新疆(新しい領土)を欲している、中国政府はウイグル人を全て追い出してでも新疆を手放さないだろう、とウイグル人の友人たちに、独立は夢物語だと常々言ってきた。

彼らの気持ちが痛いほど解るものとして、彼らの暮らしが平穏に過ぎることを願ってやまない。

今回はまた合唱とは何の関わりのない話でした。悪しからず。

2013年10月19日土曜日

「歓喜(Freude)に寄す」か「自由(Freiheit)に寄す」か


先だって合唱の仲間と話していたら、ベートーヴェンの第九交響曲で歌われる詩の作者フリードリッヒ・シラーは、この詩を作るにあたって、当初は”Freude”ではなく、”Freiheit"としていたが、当時の専制体制の中で、検閲を免れるために"Freude"  に変えて発表したようだ、という話があった。筆者にとっては初耳の話で、もしかするとこれまで知られていなかった資料、例えば書簡とか、同時代人の証言などが出てきたのかもしれない、と考えて、その話には異論を挟まず、「そういえば、1989年のベルリーンの壁崩壊を祝う記念コンサートでは"Freude"を”Freiheit"に変えて歌っていましたね」と言葉をつないだ。

筆者はシラーを専門にしてきたことがないので、持ち合わせの文献もほんのわずか。それでも少し気になったので手元にある5巻本のシラー選集(Aufbau版、1967年刊)やシラー注釈書Schiller Kommentar(Winkler,1969年刊)、さらにはペーター・ラーンシュタイン著「シラーの生涯」(法政大学出版局、2004年刊。原書は1981年刊))などの当該箇所にあたってみたが、それが事実ならきわめて重要な事を裏付ける証言は見つからなかった。
しかし、筆者の持ち合わせる文献はいずれも30年~45年前のもの。その後の新発見もあり得るので、ネットで少し調べてみたところ、日本語ウィキペディアにそれらしい記述が載っているではないか。ただその記述は参照した文献の誤訳に基づくものとも見えるので、信頼性に欠ける。

ネットで調べていると、第九を歌うある合唱団が名称に「フライハイト」"Freiheit" を用いているのに出会った。驚いたことに、そのウエブサイトでも上記と同様のことを謳っている。
これはかなり広範囲に広がっている話ではないか、と考え、その出所が気にかかり、その後も暇を見てはしらべていたところ、1986年に発行された「別冊太陽 ベートーヴェン交響曲第九番 合唱付」にこれに関連する記事が載っていた。
それは藤田由之と諸井誠の対談の中で、ドイツ文学者の川村二郎によるシラー詩の解説を受けて,藤田氏が「今の川村さんのお話で、やはりシラーの詩は自由のための詩であるように思いますね。シラーの詩は"An die Freude"と題されていますが、本来それを"die Freie"としたかった、つまりdie Freieは自由民という意味ですが、当時の世相が、その言葉を使うことを許さなかったという説もあります」と述べている。

これが事実ならきわめて重要な指摘になるその”説”の出所は、残念ながら示されていない。なお、ドイツ語 ”die Freie” は文法的には "die Freien" と複数形にしないと「自由民」の意味にはならない。
それはさておき、この「別冊太陽」には他にドイツ文学者の高辻知義も対談に加わっているが、奇妙なのは、著名なドイツ文学者の川村、高辻両氏が藤田氏の発言を裏付けることを何も語っていないことである。

藤田氏発言の時期からすると、この新説は新証拠発見に基づくといった最近のことではなく、大分以前から流布していたものと考えるべきだろう。
シラー研究文献は上述の通り持ち合わせていないので、ここはネットで調べるほかに手はないと考え、手始めに、ドイツ語版ウィキペディアや英語版ウィキペディアなどにあたってみたが、この説に言及したものは見当たらない。一体日本語版ウィキペディアのあの記述はどういうことだろう。

ネットを調べていくと、Alexander Rehding の”Ode to Freedom":Bernstein's Ninth at the Berlin Wallという2005年に発表された論文に出会った。 その中に、Bernstein が1989年11月のベルリーンの壁崩壊を記念して同年クリスマス休暇中に演奏した第九において、"Freude"を"Freiheit" に置き換えたことへの言及がある。それによると、Bernstein 自身はこの変更について学術的な根拠はないとしながら、シラーは元々"An die Freiheit" と題する詩を書いたが、検閲に屈して"An die Freude"に変えたとする1849年発表のFriedrich Ludwig Jahn の記事に依拠した模様である、とRehding は書いている。

筆者はF. L. Jahn の記事も、Bernstein の第九演奏を収録したCD Bookletを見ていないので正確なことはいえないが、Rehding も指摘するように、Jahn の説は今ではいかがわしいものと見なされていると考えていいだろう。Jahn は"Turnvater" ”体操の父”とよばれる教育者にして政治家だが、シラー研究の中では彼のこの発言は無視されてきたのだろう。

確かに、シラーの詩ではFreudeをFreiheitに置き換えても意味の齟齬無く脈絡は繋がる。さらに言えば、シラー自身自由への希求の念は誰にもまして強かった。フランス大革命の前夜、時代の空気も自由、平等、友愛を求めるものであった。彼自身はこの理想主義的理念を掲げるフリーメーソン(ドイツ語"Freimaurer")の一員ではなかったが、この詩がなった頃、彼の仲間にはロッジLoge(フリーメーソンの支部)に加わるものがいた。専制体制が重くのしかかる時代にあって、すでに『群盗』を発表し熱烈に迎えられていたシラーほど自由への頌歌を歌うのにふさわしい詩人はいなかっただろう。

しかし、この詩の成立事情を考え合わせると、やはりJahn の説は受け入れられない。若くして新しい文学の騎手に名乗り出たものの、経済的苦境や人間関係に苦悩するシラーにとって、ザクセンの友人たちが温かく迎えてくれたことは彼の人生にとって最も歓びに満ちた時期であっただろう。この頌歌のメッセージは普遍性を持つとはいえ、まず若きシラーの個人的な事情が、人生の歓びを歌うこの詩に昇華されたと見るべきである。

2013年10月8日火曜日

朗読を聞く


先週の土曜日(105日)、友人が参加する朗読会の発表会に出席した。

このような催し物の朗読を聞くのはこれが初めてだ。200人程度収容の会場はほぼ満席。ほとんどが中高年の、特に女性が目立つ。朗読者たちと相似形をなす。

朗読者は全部で7名。一人15分~20分の持ち時間で、主に小説作品を朗読する。会場は元々映像ホールなので、黒いステージにスポットライトを浴びて、直立不動の姿勢で朗読する。聞いている方も緊張を強いられる。

その朗読会は創立30周年を迎え、発表者もベテランなのか、皆巧い。練習を重ねたのであろう。淀みなく、滑舌も確か。アーティキュレーションの訓練が良くなされている。

取り上げられた作品は古典から現代作品まで多様だ。
現代物は聞き手も時代を共有するだけに、聞き手を納得させるだけの力量を要する。古典や明治期などの作品では、聞き手にいかに言葉を届けるかが問われる。聞き手がすでに何度も読んでいる作品はともかく、初めて接する作品では、日常語から懸け離れている場合は意味不明になりかねない。漢語ならかえって視覚に頼る方が理解しやすい。
和語は耳に心地よいが、現代人には馴染みの無い言葉も出てくる。前後の脈絡から理解できるように工夫する必要がある。

今回発表した友人とも話したが、朗読するためにはテクストの徹底した理解が必要になってくる。小説作品の場合、地の文と会話体の文からなる。地の文は語り手の文だ。会話文は人物の肉声だ。
物語には語り手と人物たちがいる。語り手には三人称の語り手と一人称の語り手がある。朗読にはまず語り手像の把握が必要となる。
それら虚構の語り手と人物たちの関係・距離をつかむことが、人物像の把握に繋がるし、人物たちの言葉の理解を容易にする。語り手は人物を客観的に見ているのか、感情移入しているのか、冷淡なのか、また物語のどの人物の目を通して見ているのか、それらを問う必要がある。これらのことが朗読に反映される。

このように、朗読はアーティキュレーションの問題だけではないことは言うまでもない。物語作品の解釈が問われるのである。その上に立ってパフォーマーとしての表現力が求められる、一つの舞台芸術である。

ニッケルハルパの音色


少し前に、わが家のミニホールでニッケルハルパコンサートを開く旨宣伝をした。

今週日曜日(10月6日)午後、アコーデオンの低音にのってニッケルハルパの素朴な、それでいて繊細な音色が、少し遠くから流れてくるように、行進曲でコンサートが始まった。さながら、北欧の田舎の祭りが目に浮かぶような音色である。

演奏者の鎌倉夫妻は民族衣装に身を包んで、ニッケルハルパの演奏と紹介、さらには舞踊と、トークを交えてスウェーデンラップランド地方の文化を紹介してくださった。

日本では馴染みが薄いニッケルハルパ。キー付きフィドル。音程はキーを押さえ、弓で4本の弦を弾く。奏者の鎌倉和子さんがおっしゃるには敷居の低い楽器とのこと。初心者がとりあえず正確な音程の音を出す、ということなら敷居が低いといえるが、演奏となると決して生やさしい楽器ではない。ヴァイオリン同様、ボーイングが重要になる。
4本弦というと、ヴァイオリンの仲間を浮かべる方も多かろうが、直接弓に触れない12本の共鳴弦が付いているので、音色もヴァイオリンとは少し異なる。繊細さに野太さがプラスされているように感じた。言うなれば、味わいのある楽器である。

この夏滞在先の札幌の地下道を歩いている時、偶然、初めてこの楽器の演奏に出会った。京都からやって来た若者たちのグループが、北海道公演に先立ちデモ演奏を行っていたのである。
すでにわが家でコンサートを開くことが決まっていたので、初めて聞くニッケルハルパの音色がとても気にかかった。というのは、打ち明けて言えば、このときの演奏では、主役とも言うべきニッケルハルパが他のビオラやギター、ドラムにかき消され、地味な印象しか持てなかった。ヴァイオリンが持つ華がないのである。

しかし、この度わが家での演奏は札幌での印象と全く異なった。若者たちは自分たちのオリジナルの曲を演奏していた。鎌倉さんは伝統的な曲を演奏してくれた。そのような演奏曲目の違いはあったろう。それ以上に印象を変えたのは、音響空間の違いであったと思う。札幌では雑踏の中、響きの悪い最悪の環境であった。

手前味噌になるが、わが家のミニホールは大きさの割には残響もあって響きがよいと演奏者から評価を得ている。とくに、ヴァイオリン、ギター、マンドリンのような繊細な音の楽器に向いていると思う。
この度の演奏では、共鳴弦の響きがよく聞こえ、ホールいっぱいに音が広がった。そのニッケルハルパの音色をそっと支えるように、ご主人がボタン付きアコーデオンで低音を奏で、まことに息のあった演奏を披露した。筆者の連れ合いも、目に涙がにじむ、心に響く演奏であったという。

鎌倉さんご夫妻は元来、民族舞踊の研究を続けてこられ、その中でニッケルハルパと出会い、何度もスウェーデンに渡航された。筆者の理解では、まるで三味線の習得に師匠に弟子入りするかのようにして、この楽器の演奏を習得されたようである。

鎌倉さんご夫妻から日曜日の午後、素晴らしい一時をご提供戴いたのであるが、集客が思うようにいかず、このようなすてきな時間を共有する人が少なかったことが残念である。それでも30名近い人々が満足して帰路についたものと確信している。

この場を借りて、鎌倉さんご夫妻にお礼申し上げたい。

2013年10月3日木曜日

Psalm 98 (詩編98)を歌う


筆者が所属する男声合唱団は、今県合唱祭に向けて「詩編98」の練習をしている。
前回の練習時に、最年長の団員H.W.さんが、歌詞を、わかりやすい漢字かな混じり文に直して、メンバーに配った。お陰で、今ひとつ意味が通らなかった部分が明らかになり、解りよくなった。

この曲は合唱曲集「グリークラブアルバム1」(カワイ出版)にも掲載されていて、男性合唱曲としてはよく知られたものだが、編曲者平田甫の名があげられているのみで、原曲が誰に依るのか全く解らないので、インターネットを使って少し調べてみた。

手がかりを与えてくれそうなのは「さえらのすし」さんのWEB サイトだ。同志社大学グリークラブ出身の「さえらのすし」さんによると、この曲は同グリークラブの定番曲の一つとのこと。編曲者平田甫は同グリーの第3代指揮者。
平田甫氏がグリー50周年記念誌に寄稿していて、その文章を抜粋で紹介している。ここにそれをそのまま引用する。なお、同志社大学グリークラブの創設は1904年までさかのぼる。

「ある日平安教会で堀内清氏が横浜か何処かで手に入れられた謄写版刷りの一曲。美しい礼拝向きの混声曲。相当変化はあるし、讃美歌ばなれをして居る。勿論不相応なことは判って居る(中略)。まるで追われる様にして編曲したのが此の詩篇第九十八(中略)。曲が礼拝向で実に美しいが演奏会には少し地味すぎる(中略)。神戸の青年会で歌った時に、試みに終りをオクターブ上げて、フォルテシモにして見た。それまではピアノでアーメンを歌っていた。」

同WEB サイトには、古い手書き合唱曲集の書誌もあって、「Choir Book」というタイトルの曲集の13番目に、「詩の九十八」(詩編98)の楽譜が掲載されている。この曲の楽譜の下には「神戸教会聖歌隊 1923.9.16」と書き足してある。この曲集表紙にも「神戸組合教会聖歌隊発行 第三版」とあるので、少なくとも関東大震災と同年1923年か、それより前に横浜の教会や神戸教会、さらに京都の平安教会では歌われていたということになる。おそらくこの楽譜は、平田氏の証言を考え合わせると、現在われわれが手にする平田甫編曲による男性合唱曲以前の混声原曲のすがたをとどめていると考えていいだろう。

しかし、これまで調べた範囲ではまだこの曲の来歴に関しては不明のままである。
日本基督教賛美歌委員会によって1997年に編纂・出版された『賛美歌21』にも、ざっと見たところのっていない。上記平田氏の文に「横浜か何処か云々・・・」とあるので、日本で最初のプロテスタント教会である横浜公会(現在の日本キリスト教会・横浜海岸教会)がまず念頭に浮かぶ。そのあたりが出発点か。
筆者は当初、この曲は欧米で作曲され、それが宣教師か讃美歌集の楽譜で日本にもたらされ、日本語に訳された、と考えた。しかし訳詞にしては旋律と日本語がとても良くあっている。日本語歌詞が旋律に乗せるために意訳をほどこされたとは見えない。日本語が実に無理なく旋律に乗っている。先に日本語テクストがあって、それに曲を付けられたように見える。
そのように見ると、この曲は欧米などで作曲されたのではなく、例えばプロテスタント系の教会関係者が日本語詩編98をもとに作曲して、それがガリ版刷りで広まったと考えたほうがいいかもしれない。
YouTube でさまざまな、大半は欧米の「詩編98」を約50曲ほど視聴してみたが、当該の旋律の曲に出会うことはなかった。筆者の持てる手段ではもはやお手上げである。この先は讃美歌学の専門家に尋ねるか、欧米由来も考慮して欧米の当ジャンルの楽譜や文献に当たるほかないだろう。

親しまれていながら、存外その来歴がよく知られていないものが結構あるものである。この曲もその一つだろう。
このブログを読まれた方でご存じの方はご教示ください。

旧約聖書「詩編98」はもちろん日本語訳で読むことが出来る。以下はその日本語テクストである。訳は岩波書店版、「旧約聖書」全15冊の第11巻、松田伊作訳によった。( )はその訳注である。

詩編 98
 (その救いの業を見た全世界に、主ヤハウェへの喝采を促し、自然界とともにそ  
  の来臨を待ち望む、民の歌。)

うたえ、ヤハウェに、新しい詩を。
不思議な業をかれが行ったからだ。
かれを救ったのはかれの右手と
かれの聖なる腕。
ヤハウェはかれの救いを知らせ、
諸国民の目にかれの正義を顕した。
かれは思いを起こした、
イスラエルの家への
かれの恵みと信実を。
地の隅々までことごとくが見た、
われらの神の救いを。

凱歌をあげよ、ヤハウェに、全地よ。
ほがらかに歓呼し、ほめ歌え。
ヤハウェをほめ歌え、琴を持って、
琴とほめ歌の声とをもって。
喇叭と角笛の音とをもって
凱歌をあげよ、ヤハウェ王の前に。

どよめけ、海とそれに満ちるものは、
大地とそれに住むものら[も]。
諸々の河は掌を打ち鳴らし、
山々もともに歓呼せよ、
ヤハウェの前に、かれが来るとき、
地を裁くために。
かれが裁くように、義をもって大地を、
公平をもって民らを。


全部で150編からなる「詩編」の創作年代は正確には分かっていない。数百年間に及ぶ時間的広がりを持つとみられる。作者も不明である。「詩編」の書の成立は前2世紀~後1世紀と見られている。
詩編は、祭儀などにおいて集団で歌うことを前提にしたもの、あるいは個人の祈りの中で唱えられるものなど、いくつかの類型に整理する試みがなされてきた。内容的には当該「詩編98」がそうであるように、神に対する賛歌が多いが、民や個人の嘆きの歌、感謝の歌、王の詩編、巡礼歌など、一義的に祭儀に結びつけるのには無理がある。今日では非祭儀的な朗読用の「祈りと思索の書」と見る見方が優勢のようだ。

英語や独語では「詩編」をPsalms;Psalter, Psalm というが、これらの語源には「讃歌の書」の意味がある。なお、英語では語頭のps-, pt- のpは発音されないので、[サーム] と発音されるが、ドイツ語 Psalmは[プサルム] と発音する。

15世紀頃までは、詩編は教会旋法に基づいて歌われてきたが、ジョスパン・デプレが初めて詩編テクストを用いてモテットを作曲している。ルターやカルヴァンの宗教改革以降はプロテスタント系の教会において、ラテン語に依らずに、英語、仏語、独語のテクストをもとに作曲され、詩編歌集が次々に生まれた。ルター自身詩編をドイツ語に訳し、作曲している。「詩編98」には、後にメンデルスゾーンも曲を付けている。

YouTube を視聴すると、創作詩編歌が今も生まれていることがうかがえる。90年あまり前の日本でも、オリジナルの詩編歌が作曲されていたとしても不思議ではない。