2014年7月3日木曜日

立憲主義の終焉


平成26年7月3日は憲政史上、立憲主義をないがしろにする重要な決定がなされた日として記憶されるだろう。

憲法を遵守する義務を負う行政のトップが、憲法の文言の中から自己に都合のいい部分だけを取り出し、「解釈の変更」と強弁して、この憲法の平和主義を足蹴りにした。平和な日本の70年に及ぶ戦後の歩みを侮蔑するかのように、「戦争放棄」の看板を投げ捨てた。

憲法は、日本のあり方を国民だけでなく、国際社会にも示すものだ。憲法が明示的に示す日本の形と、実際の日本の行動との齟齬を世界はどのように理解すればいいのか、戸惑うだろう。言葉の持つ重み、論理を重視する欧米の人々の眼には、ますます日本は理解しにくい国だと映るだろう。

この度の「集団的自衛権行使容認」は、前ブログにも書いたとおり、台頭する中国の軍事的脅威に対処するため、明らかに日米軍事同盟をより一層強固なものにすることを目指したものだ。
弱体化しつつある「世界の警察官」アメリカを支えるため、「集団的自衛権行使」だけでは足りなく、「集団的安全保障」を根拠に派兵できるようにしたいことが透けて見える。まさに「紛争の解決の手段」(憲法条文)として、軍事力を行使する、と言うわけである。
しかし、ベトナム戦争以来、軍事力で紛争の解決を図ろうとし、「テロとの戦い」で泥沼に陥っているアメリカの姿は、反面教師として十分だろう。

そのアメリカだが、いみじくも当時のブッシュ(ジュニア)大統領が言ったように、敵・味方を峻別して、問答無用、アメリカ側につくように求める。これまで、日本は「日本国憲法」を盾にアメリカへの加担は限定的であった。今後は、アメリカの要求に強く「ノー!」と言えるのか、はなはだ疑わしい。

それほど親米的とは見えない安倍首相は、自衛隊を海外に派兵することが出来るようにすることで、アメリカと対等な関係を築ける、とおそらく考えているのだろう。これは外務当局にとっても、日米軍事同盟の強化と並んで、外交交渉上悲願として歴代受け継がれてきた事だとみてよい。

「集団的自衛権行使容認」、「集団的安全保障」への参加は戦後の日本のあり方を大きく変えることだ。これにより、アメリカの戦争に加担することを強いられ、中東や発展途上国に見られるアメリへの憎悪が、今後、日本にも向けられることを覚悟しなければならない。

前ブログにも書いたとおり、日米軍事同盟の強化は戦争抑止として働くより、一層の軍拡競争を招き、東アジアの緊張を高める。それによって失う経済的損失の大きさは計り知れない。
この度の閣議決定が、中国はもとより、同盟国であるはずの韓国からも警戒の眼で見られていることにもっと目を向けるべきである。

今後は、舞台を国会の場に移して論議されるだろうが、国会の情勢を見ると、民意から大きく離れて、「行使容認」派が大多数を占めているので、国の形の大きな変更はもはや決定的なのかもしれない。本来、国会解散して民意を問うべきものなのだが。

                                                                  2014-7-3 記