7月のコンサートに向けて、次第に練習も熱気を帯びてきた。
オープニング曲は標題のAve Verum Corpus。「めでたし、真のお体よ」の挨拶で始まるこの典礼曲、モテットはモーツァルトによるものが最も有名である。モーツァルトがこの世を去る半年ほど前の1791年6月、ウィーン近郊の保養地バーデンに湯治のため滞在していた妻のコンスタンツェを何くれと無く世話してくれていた聖歌隊指揮者A.シュトルのために、聖体節の礼拝用としてこの小品をバーデンで書いた。あるモーツァルト伝では、シュトルがコンスタンツェに思いを寄せていたとの記述があるが、真偽はわからない。(アルフレート・アインシュタイン著『モーツァルト その人間と作品』)優しく、穏やかな冒頭部ではじまり、静謐な響きで終わるこの作品をみると、精神的にも、肉体的にも、経済的にも困難を抱えていたこの時期、モーツァルトは作曲の中に安らぎを得たのであろうか。
めでたし、乙女マリアからお生まれになった真のお体よ
世の人のため、真の苦しみを受け、十字架にかけられた
刺し貫かれたその脇腹から、水と血が流れた
我らのために、死の試練を前もって味わわせ給え
この典礼文の「刺し貫かれたその脇腹から、水と血が流れた」の部分はヨハネによる福音書の第19章31−34に基づく。
「さて、その日は準備の日だったので、その週の安息日は大祭日であったから、
それらの体が安息日に十字架の上に残らないよう、ユダヤ人たちは、彼らの足を折っ て取り除くようにと、ピラトゥスに頼んだ。そこで、兵士たちが来て、彼とともに十 字架に付けられた第一の者、またもう一人の者の足を折った。イエスのところに来て みると、すでに死んでいるのを見て、その足を折ることはしなかった。しかし、兵士 たちの一人がその槍で脇腹を突いた。すると、すぐ血と水が出てきた。」
(小林稔訳『ヨハネによる福音書』岩波書店刊)
ちなみに、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書にはこの「死の確認」の記述は見られない。
言葉による宗教とも言われるキリスト教では、その言葉は音楽を伴って表現されるものと考えられてきた。西洋音楽の歴史をちょっと振り返れば、キリスト教と音楽が不可分な関係にあったことが容易に見て取れる。ミサ曲にしろ、コラールにしろ、これら宗教音楽は教会という聖なる空間における典礼のためのものだ。キリスト者にあらざるものとして、世俗的な空間で歌うにしても、言葉と音楽の結びつきをしかと受け止めて歌いたいものだ。
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