2013年9月28日土曜日

市民合唱団の悩み


長年にわたり高校で合唱指導に当たってきた指導者が、退職後、ある地方都市の市民合唱団の指導を始めることになったとき、大きなショックを受けたという。
高校ではほとんど毎日練習しているわけだが、市民合唱団では毎週1回の練習があればまだいい方で、月2,3回の合唱団もある。その数少ない練習にも休まざるを得ない人も出てくる。これはわかっていたつもりでもショックであったという。
さらには、高校生は言ってみれば均質集団であるが、市民合唱団は年齢層も、合唱経験の多寡も、参加動機もまちまちの集団。それだけに選曲を含め、指導の照準をどこに合わせたらいいのか、指導者の悩むところとなった。

ここで言う市民合唱団とは、歌いたい市民が自由に参加でき(従って歌唱力はまちまち)、週に1回、あるいは月に2,3回の練習を、曲目選定から練習スケジュール全てを指揮者に委ねる、どこにでもよくある合唱団のことである。

筆者は合唱を初めてまだ5年足らずと短いが、これまで関わった6つの合唱団のうち、4つはここで言う市民合唱団である。

地方小都市の市民合唱団は、おそらくどこも似たような困難を抱えているのではないだろうか。その困難とは、一つは高齢化、比較的若い年齢層も参加している合唱団の場合には、仕事などの都合で練習日、時間に皆がそろわないこと、混声合唱団の場合はパートごとの人数バランスの悪さ(男性が少ない)、そしておそらく最大の困難は、露骨な言い方で恐縮だが、個々の歌唱力の違いだろう。

歌唱力と言っても、すでに一定水準にある歌手の表現のための「歌唱力」のことではなく、ここでは、練習によって楽譜通りの音程、リズムで歌える基本的な力があるかどうかということ。これは経験の多寡、特に若年時からの音楽に親しむ機会の多寡に大きく左右されるだろう。
筆者の所属する合唱団で合唱は初めてという人が最近加わった。失礼ながらその方が歌うのをそばで聞いていると、まずピアノに合わせて音を取ることが出来ない、おなじパートの人と声を合わせられない、違っていてもそれを自覚できない、そのような合唱経験が皆無という人も加わるのが市民合唱団である。

かくいう筆者も、階名で歌うのに慣れていないし、固定ドで歌うこともかなわない。音取りはもっぱら片手でひくピアノに頼っているし、音取りも遅い。もうすぐ古希を迎える年のせいか、覚えるのに時間もかかる。覚える前に忘れていく。ピッチも不正確。ビブラートといえば聞こえがいいが、声の震えを取るのに苦労する。

こんなレベルの筆者をも受け入れてくれるのが市民合唱団の良さでもある。健康にいいから歌いたい、人と交わりたいから歌いたい、といった目的で参加することも、市民合唱団ならどこでも容認されていると思う。

しかし、このような市民合唱団であっても、合唱することが目的なら、合唱のレベルを少しでも上げようと努めることも至極当然である。指導者は合唱団の現実に戸惑いながらも、コンクールや合唱祭参加、演奏会の開催などをレベル向上のための大きなモチベーションに、時には団員を叱咤激励、鼓舞して指導に当たる。しかし、時には指導者の意向と団員の気持ちがすれ違いになることが起こる。

寛容であること、それは指導者だけに求められる普遍的な資質ではない。合唱団員にも求められる姿勢であることは言を俟たない。

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