2013年10月8日火曜日

朗読を聞く


先週の土曜日(105日)、友人が参加する朗読会の発表会に出席した。

このような催し物の朗読を聞くのはこれが初めてだ。200人程度収容の会場はほぼ満席。ほとんどが中高年の、特に女性が目立つ。朗読者たちと相似形をなす。

朗読者は全部で7名。一人15分~20分の持ち時間で、主に小説作品を朗読する。会場は元々映像ホールなので、黒いステージにスポットライトを浴びて、直立不動の姿勢で朗読する。聞いている方も緊張を強いられる。

その朗読会は創立30周年を迎え、発表者もベテランなのか、皆巧い。練習を重ねたのであろう。淀みなく、滑舌も確か。アーティキュレーションの訓練が良くなされている。

取り上げられた作品は古典から現代作品まで多様だ。
現代物は聞き手も時代を共有するだけに、聞き手を納得させるだけの力量を要する。古典や明治期などの作品では、聞き手にいかに言葉を届けるかが問われる。聞き手がすでに何度も読んでいる作品はともかく、初めて接する作品では、日常語から懸け離れている場合は意味不明になりかねない。漢語ならかえって視覚に頼る方が理解しやすい。
和語は耳に心地よいが、現代人には馴染みの無い言葉も出てくる。前後の脈絡から理解できるように工夫する必要がある。

今回発表した友人とも話したが、朗読するためにはテクストの徹底した理解が必要になってくる。小説作品の場合、地の文と会話体の文からなる。地の文は語り手の文だ。会話文は人物の肉声だ。
物語には語り手と人物たちがいる。語り手には三人称の語り手と一人称の語り手がある。朗読にはまず語り手像の把握が必要となる。
それら虚構の語り手と人物たちの関係・距離をつかむことが、人物像の把握に繋がるし、人物たちの言葉の理解を容易にする。語り手は人物を客観的に見ているのか、感情移入しているのか、冷淡なのか、また物語のどの人物の目を通して見ているのか、それらを問う必要がある。これらのことが朗読に反映される。

このように、朗読はアーティキュレーションの問題だけではないことは言うまでもない。物語作品の解釈が問われるのである。その上に立ってパフォーマーとしての表現力が求められる、一つの舞台芸術である。

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