2013年10月19日土曜日

「歓喜(Freude)に寄す」か「自由(Freiheit)に寄す」か


先だって合唱の仲間と話していたら、ベートーヴェンの第九交響曲で歌われる詩の作者フリードリッヒ・シラーは、この詩を作るにあたって、当初は”Freude”ではなく、”Freiheit"としていたが、当時の専制体制の中で、検閲を免れるために"Freude"  に変えて発表したようだ、という話があった。筆者にとっては初耳の話で、もしかするとこれまで知られていなかった資料、例えば書簡とか、同時代人の証言などが出てきたのかもしれない、と考えて、その話には異論を挟まず、「そういえば、1989年のベルリーンの壁崩壊を祝う記念コンサートでは"Freude"を”Freiheit"に変えて歌っていましたね」と言葉をつないだ。

筆者はシラーを専門にしてきたことがないので、持ち合わせの文献もほんのわずか。それでも少し気になったので手元にある5巻本のシラー選集(Aufbau版、1967年刊)やシラー注釈書Schiller Kommentar(Winkler,1969年刊)、さらにはペーター・ラーンシュタイン著「シラーの生涯」(法政大学出版局、2004年刊。原書は1981年刊))などの当該箇所にあたってみたが、それが事実ならきわめて重要な事を裏付ける証言は見つからなかった。
しかし、筆者の持ち合わせる文献はいずれも30年~45年前のもの。その後の新発見もあり得るので、ネットで少し調べてみたところ、日本語ウィキペディアにそれらしい記述が載っているではないか。ただその記述は参照した文献の誤訳に基づくものとも見えるので、信頼性に欠ける。

ネットで調べていると、第九を歌うある合唱団が名称に「フライハイト」"Freiheit" を用いているのに出会った。驚いたことに、そのウエブサイトでも上記と同様のことを謳っている。
これはかなり広範囲に広がっている話ではないか、と考え、その出所が気にかかり、その後も暇を見てはしらべていたところ、1986年に発行された「別冊太陽 ベートーヴェン交響曲第九番 合唱付」にこれに関連する記事が載っていた。
それは藤田由之と諸井誠の対談の中で、ドイツ文学者の川村二郎によるシラー詩の解説を受けて,藤田氏が「今の川村さんのお話で、やはりシラーの詩は自由のための詩であるように思いますね。シラーの詩は"An die Freude"と題されていますが、本来それを"die Freie"としたかった、つまりdie Freieは自由民という意味ですが、当時の世相が、その言葉を使うことを許さなかったという説もあります」と述べている。

これが事実ならきわめて重要な指摘になるその”説”の出所は、残念ながら示されていない。なお、ドイツ語 ”die Freie” は文法的には "die Freien" と複数形にしないと「自由民」の意味にはならない。
それはさておき、この「別冊太陽」には他にドイツ文学者の高辻知義も対談に加わっているが、奇妙なのは、著名なドイツ文学者の川村、高辻両氏が藤田氏の発言を裏付けることを何も語っていないことである。

藤田氏発言の時期からすると、この新説は新証拠発見に基づくといった最近のことではなく、大分以前から流布していたものと考えるべきだろう。
シラー研究文献は上述の通り持ち合わせていないので、ここはネットで調べるほかに手はないと考え、手始めに、ドイツ語版ウィキペディアや英語版ウィキペディアなどにあたってみたが、この説に言及したものは見当たらない。一体日本語版ウィキペディアのあの記述はどういうことだろう。

ネットを調べていくと、Alexander Rehding の”Ode to Freedom":Bernstein's Ninth at the Berlin Wallという2005年に発表された論文に出会った。 その中に、Bernstein が1989年11月のベルリーンの壁崩壊を記念して同年クリスマス休暇中に演奏した第九において、"Freude"を"Freiheit" に置き換えたことへの言及がある。それによると、Bernstein 自身はこの変更について学術的な根拠はないとしながら、シラーは元々"An die Freiheit" と題する詩を書いたが、検閲に屈して"An die Freude"に変えたとする1849年発表のFriedrich Ludwig Jahn の記事に依拠した模様である、とRehding は書いている。

筆者はF. L. Jahn の記事も、Bernstein の第九演奏を収録したCD Bookletを見ていないので正確なことはいえないが、Rehding も指摘するように、Jahn の説は今ではいかがわしいものと見なされていると考えていいだろう。Jahn は"Turnvater" ”体操の父”とよばれる教育者にして政治家だが、シラー研究の中では彼のこの発言は無視されてきたのだろう。

確かに、シラーの詩ではFreudeをFreiheitに置き換えても意味の齟齬無く脈絡は繋がる。さらに言えば、シラー自身自由への希求の念は誰にもまして強かった。フランス大革命の前夜、時代の空気も自由、平等、友愛を求めるものであった。彼自身はこの理想主義的理念を掲げるフリーメーソン(ドイツ語"Freimaurer")の一員ではなかったが、この詩がなった頃、彼の仲間にはロッジLoge(フリーメーソンの支部)に加わるものがいた。専制体制が重くのしかかる時代にあって、すでに『群盗』を発表し熱烈に迎えられていたシラーほど自由への頌歌を歌うのにふさわしい詩人はいなかっただろう。

しかし、この詩の成立事情を考え合わせると、やはりJahn の説は受け入れられない。若くして新しい文学の騎手に名乗り出たものの、経済的苦境や人間関係に苦悩するシラーにとって、ザクセンの友人たちが温かく迎えてくれたことは彼の人生にとって最も歓びに満ちた時期であっただろう。この頌歌のメッセージは普遍性を持つとはいえ、まず若きシラーの個人的な事情が、人生の歓びを歌うこの詩に昇華されたと見るべきである。

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